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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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峯子の手紙は、終始一貫丁寧な言葉遣いで統一されています。

こんな感じ===
お便りで伺いますとご多忙なご様子、
炎暑の折柄、お体に障りはいたしませぬかと案じられます。
ご無理なさいませぬようお願い申し上げます。


とか

七月始めに短い御便りに接しましたのみ、
その後、また御無音でいらっしゃいますのは、
まだ野戦にて日夜御奮闘の御事と御労苦の程、
お察し申し上げます。


====
普段でも、こんな言葉遣いだったのでしょうか。
「御」が多すぎる~?
書き言葉なので、多少会話とは違うとはいえ、
夫として敬いを込めていますね。
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栄と峯子をつなぐ一粒種の長男
栄は、戦地からとても子どもの事を気にして
あれこれ、教育方針を示します。


教育だけはしっかりやって下さい
言葉遣から其の他一切留守中あづかって
自慢して俺に見せれる様に。


女の子ならお前に任せる、といった辺り
当時の一般的な考えだったのでしょうが、
現代なら、ジェンダー(社会的・文化的な性 のありよう)
少々違和感ありますけど。
三日と開けずにお手紙を書いている感じがするのですが
1週間に一度くらいの頻度で
お手紙は書かれています。
でも、戦地への郵便は、
そうすぐには届きません。
時々、奥地に入って行く時なのでしょう
「しばらく手紙が書けない」と
知らせてくることもありました。
進軍している最中はもちろん
それどころではない筈ですし、
どうやって郵便事業をしていたんでしょうね。
内地から軍宛てのものは、
番地でなく、所属の隊名で出していますが、
進軍中は、場所がどんどん奥地へ移動するので
届けたり受け取るのが困難だった事でしょう。
届く順番も前後するのも、珍しくなかったようです。
戦地からのものは軍事郵便と書かれています。

検閲済の印もありますね。航空便もあります。
時折、遺骨の護衛や
新兵引率などで内地にいく兵隊に
託して行き来することもあるみたいですね。

しかし、
現在の三谷(みや)地区は、1954(昭和29年)の合併で蒲郡市三谷町になっていますが、
当時は宝飯郡(ほいぐん)三谷町でした。

宝飯の歴史は古く、7世紀後半に、三川国穂評(ほのこほり)、
8世紀の律令制以降は、寶飫(ほお)郡でした。
さらに、寶飯(ほい)郡と誤記され、
現在の宝飯郡に至ったとのこと。
10世紀までは、設楽郡域も宝飯郡でした。

大正になってから、
市内各地に石碑が建てられていて、
見ると大正4年って記されたものが多い気がします。

現在の三谷町八舗あたりにある道標には
右新道 とよはし
左旧道 役場、学校、と記されています。
峯子の職場だったところですね。

ちなみに、こちらの画像は、7年前のもので
まだ後にレンガの煙突が建っていた頃のものです。



峯子の生活エリアである三谷の町は、
当時の主要な大通りだった平坂街道に近く
繊維関係の問屋や工場、商品を扱う店、
風光明媚な観光スポットの公園などもあり
なかなか裕福な町だったと思います。
ですから、kuralenga
大きな漆喰やレンガ造りのお蔵が今でも残っていたり
kuraki大正~昭和初期と思われる立派な建物も点在しています。
今では輸入品に押されて、
国内の繊維産業は低迷していますが、
軍儒のガーゼを作っていた蒲郡市内の会社は、
鉄製品供出の時代も織機を潰すことなく
稼働することを許されていたと
以前聞いたことがあります(現在は廃業)。
峯子の実家の家業は繊維関係の会社のようですが
材料が手に入らなくなって操業もだんだん難しくなっていくとはいえ
値も上がるので、そこそこ良かったのでしょう。
手紙には、働いている女工さんたちが、
一粒種の長男を「かわいい」と抱っこしたり
軍歌を歌いながら仕事に通ったり
従業員の慰安会で映画など見に行ったなどと記述されています。
秋まつり酣(たけなわ)、毎晩笛太鼓の練習の音が聞こえます。
今週末は竹島八百富神社の祭礼、来週は三谷祭です。

観光交流ウィークで巷は賑わっています。
観光の街おこしをしようとの企ては、
昭和の時代に遡るんですね~。

【メモより】
1934年(昭和9年)旧蒲郡ホテル(1912年より滝信四郎が常磐館開業)を開業。竹島を観光名所に、文豪も訪れる。
 その年に、本宿蒲郡間の新箱根線開通し、鉢地坂トンネル開通。
昭和12年 滝信四郎氏は子安弘法大師像を建立
昭和14年 巨大なふきぬき観光ホテルが操業。

へえ~、そ~なんだ。
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2011年2月に出版。
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