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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
昭和20年12月1日は、
サイパン島タッポーチョでゲリラ戦を戦い続けた日本兵達の「終戦」の日です。
山を降りる様子・大場家の家宝となる軍刀のシーンは、
映画「太平洋の奇跡」でもクライマックスシーンですね。
軍部では、7月7日の総攻撃で玉砕した事と思われ,
戦死の報を受け、葬式まで出していたのですが、
峯子は、戦後南方からの帰還兵の話で、
栄がサイパンで生きているという話を噂に聞いて
夢か誠かと「わが身をつねって」いたようです。
(峯子本当の最後の手紙より)
峯子は、この時のことを報道した日本の新聞に「大場大尉は三河出身」の文字を見て、
涙に目がうるんだことでしょう。
「ほんたうに夢のやうです」と取材に答えています。






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昭和20年の11月、日本では戦後の混乱の頃だったでしょうか?
大場栄達、サイパンで生き残った日本兵たちは、
立てこもってゲリラ戦を続けてきたタッポーチョ山を、
アメリカ軍の呼びかけに応えて山を下りるかどうか、
議論沸騰だった事でしょう。
ドンジョーンズ著「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」には、
栄は、上官の命令に従うのが、兵隊であると
米軍に停戦の道を示した事が書かれています。
捕虜ではなく、誇りある日本兵として山を下りる決意をした11月の下旬。
最後の11月末日には、
それまでの艱難辛苦の日々、共に戦ってきた戦友を偲び、
残った食料を平らげ、「山での最後の晩さん会」だったようです。
様々な意見があったであろう兵たちの気持ちを一つにまとめて
自分たちの生きざまを肯定した結論に導いた
栄のトップとしての素質がとても素晴らしいと思います。
私は、その辺りのシーンがとても好きなのですが、
残念な事に、映画「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」では、
割愛されてあっという間に12月1日の朝が来てしまったので、
ちょっと残念に思っています。
明けて12月1日には、映画でも描かれる
軍歌を歌いながらの隊列で山を下り、
米軍の長官に軍刀を渡すシーンは、感動的ですね。


手紙の中で、栄の一番の関心事は、
長男一弘君の事です。
峯子の手紙には、ほとんど毎回の話題に出てきます。
17年4月から、一弘君は幼稚園に通っています。
===一部引用===
栄  17年4月

一弘の幼稚園の状況はいかがですか。早く知りたいものなり。
当分の間御無音するので、
その便りに接する暇も無い事と思うが残念なり。 
なかなか郵便物も来ないので、
一週間~二週間に一回位の平均で到着する様です。
(中略)
一弘の状況を成可早く知らせて下さい。
他の子なんかどうでもよろしい。

====

(^_^) 他の子なんかと言われていますが、ww
峯子は、次々生まれる一弘君のいとこに当たる兄妹の子どもの事も
書き記していますので。

栄が「無音」と言っているのは、
遠征や演習・討伐などで数週間から数カ月、
本部を離れていることもあり、
手紙がなかなか届かなかったようです。
しかし、峯子は結構書いています。
参考:手紙の頻度





今年は記録的な大雪のニュースで、
東北青森では、5m以上の積雪があるとか。

16年の冬、戦地でも猛吹雪と栄の手紙です。
===一部引用===
栄 16年2月22日
一昨々日珍らしくこの附近大雪が降った。
今年になって初めてです。
大体三十㎝位降り積って、零下十度位迄降下した様に考えている。
ちょうど○○が終って帰還途中であったが、
自動車がスリップして動かぬのには閉口しました。
何回か転覆し引きずり出して、
それでも大した事故なく帰って来ている。
物凄い吹雪で風に向っては呼吸が出来ない程。
中支にしては珍らしい猛雪だった。

====
文中の ○○ は伏せ字

当時はどこにいるとか、作戦に関してなどは軍事機密で、
場所等が特定できないように伏せ字になっている。

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戦地の状況





栄の手紙には、
ほとんどが年月日が書かれていなくて、
日時・年月不明が多いのですが、
これは、年月の明記された数少ない手紙です。

===一部引用===
栄 13年1月18日
【前略】
俺も元気。
やがて凱戦して、峯子や一弘の側に帰る日を、
未練の様だがおれも待ち兼ねる。
ここもすでに酷寒というであろうか、内地位のもの。
今の生活は、内地の兵営生活とさした変化は無い。
銃声砲声も止んで、
この守備地にも平和な春が訪れるのも遠くはあるまい。


====

兵士として戦争に行く身であっても
であればこそ(?)
平和を願っているのです。

しかし、栄の予想に反し
支那事変(日中戦争)は泥沼に踏み込んだかのように長引き

栄と峯子が海城で一緒に暮らせるようになるまで
さらに5年近くの歳月がかかります。



映画「太平洋の奇跡」では、唐沢寿明が好演し
異彩を放っていた堀内今朝松一等兵は、
実在の人物で、
昭和19年11月15日に、敵の銃弾に撃たれ、
壮絶な戦いを終えました。
真実史観回帰捏造破壊真実を子孫へ!大和九九年戦争適者生存史より)
タッポーチョ 敵ながら天晴れ~大場隊の勇戦512日」(ドンジョーンズ作)では、
映画と違っていますが、
フィクション化された映画より
原本のほうが史実に近いと思います。
銃弾を聞いていた栄の無念は、いかほどだったことか。





人間の醜さの現れる戦争はもうしません。
平和な世の中を願い
すべての兵士のご冥福を祈ります。












栄は、昭和9年に入隊、
現役で北満洲の警備に行っていますが、
その後幹部候補生を志願し、11年見習い士官になります。
峯子との交際(清い交際)は、
その前からのようですが、
本格的な交際は、見習士官の予備役の頃のようです。
予備役では、普段は学校の教師をしながら
時に豊橋の18連隊に通うという生活をしていたらしい。
五号で暮らしていた頃も、
訓練で栄の留守が寂しいと峯子は書いています。

予備役とは、軍隊以外の職業に就いて生計を立てながら
または退役したあとも、
有事の折りには軍の要請に応じて動員されるもの。
平時から、数日~ひと月ほど軍に通い
いざという時にはすぐに役立つように訓練などする制度。
型式の古くなった飛行機等もそう呼んだらしい。


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戦地の状況
ロンドンオリンピック開幕ですね。

栄がまだ峯子と一緒に五号にいた頃、
1936年(昭和11年)開催のベルリンオリンピックでは、
200m平泳ぎで金メダルの
前畑秀子選手の活躍を、ラジオで「前畑ガンバレ!」と
実況放送したアナウンサーの声援が有名ですね。
栄も峯子と、五号でラジオを聞いていたでしょう。
前畑選手のご主人は医師で、
栄は戦地で出逢ったようです。

===一部引用===
栄 15年10月15日

十月八日、突然の盲腸で入院を、余儀なくさせられました。
九日に手術しましたが、その後経過良好です。
今日から重湯が飲める様になりました。
この便りの到着する頃は、起きられる様になる事と思います。
一夜腹痛で苦しみましたが、
氷で冷して一時抑えても、
もし第一線に出て再発すると命にかかわりますので、
思い切って不要な物は取ってしまいました。
(中略)
水の王者前畑秀子さんの御主人に手術して貰いました。
もう痛みはうすらぎましたから、御安心下さい。
平病ですから、大きな顔も出来ません。


======

戦傷での入院も何度もしている栄ですが、
戦地の軍医は優秀だし
平病だから心配するなとも
書き送っています。




当時の兵隊さんは、身分証明書として
軍隊手帳を持っていました。
入隊、配属、除隊等の記録をしたもので、
履歴書にもあたるのでしょう。
冒頭には「勅語」として
軍隊の心得のような事が朱で記述されています。


この軍隊手帳は、
栄たちを乗せた崎戸丸
太平洋沖で撃沈されるのは、
19年2月28日。
船上では、大混乱を極めたでしょう。
救い出されるまでの重油漂う洋上での一昼夜、
僅かの兵が生死の淵から這い上がります。
当時の状況はこちらに詳しく書かれています。
次世代への橋渡し 海没した歩兵第18連隊









栄達18連隊が、
厳寒の満洲から新たなる戦場・南方への任地に向かったのは、
昭和19年2月20日ごろ(?)。
この時、まだ歩兵たちは目的地を知らされていませんでした。
しかし、太平洋戦争が激化する中、
日本軍最後の砦となる南方へ向かうことは
うすうす感じていたでしょう。
将校には知らされていたかもしれません。

栄が満洲海城を出る時、
峯子は、第二子出産の為里帰りしていたようで、
栄の見送りができませんでした。
峯子は16日に受け取った電報で知り
あわてて海城に向かいますが隊は出立したあと。
そのことを峯子はずいぶん悔んでいたようです。
本当の最後の手紙より)


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戦地の状況












野戦中は食事にも事欠くこともあったようですが、
少なくとも病院では
栄養のある食事が支給されたようです。
17年1月に入院中の栄の手紙
しかし病院はスープや牛乳等、
栄養物も支給されるので
目方は増加している
。」

戦闘中は不規則で量も不足がちなためか、
あれもこれも食べたいと、菓子など食べ過ぎるせいか
体重も増えているとあります。









17年の1月の激しい戦いで
栄は足を負傷し、5(4?)度目の入院します。
入院中の栄の手紙は、普段簡潔な文面と違い長文で
1月中に出されたものだけでも25、29、30
日時不明のものも合わせて5~6通はあります。
戦線に出ていて受け取れなかった
12月中に出された峯子の手紙の話題それぞれに
丁寧に返事が書かれています。
長男一弘君宛ての手紙もありました。
激しい戦闘で負傷した兵士も多かったようで、
早く隊に帰りたいとの思いと
傷で思うように体が動かないのとで
何をするでもなく、
たいくつでたまらん」とも。




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戦地の状況















長沙作戦で日本軍の目覚ましい活躍が載った記事です。


小さくてなおかつ不鮮明で判読不明(@0@);
本編p343をご覧頂いた方がよろしいかも。



年末年始は、
祝い事や忘新年会などで酒席も多いと思いますが、
栄は酒が強い?
戦地ではさほど飲めないと思うのですが、
それでも本部にいる時などの正月には
お酒の配給もあったようですね。

===一部引用===
栄 16年2月

俺は酒は強いから
三本や四本呑まなければいい気持ちにならない。
土曜日の晩だけでもいい。
帰ったら気持よく飲まして貰うが、
喜んでお酌すると言っているが、
今まで一度もお酌した事もなかったお前が
果して出来るか。


====

この手紙に呼応する峯子の手紙があります。
土曜日の晩酌のできるような農作業をしながらの平和で温かい家庭
ささやかな夢の生活が訪れる日を
二人で楽しみにしています。












大場栄隊率いる47名がサイパン最後の日本兵・・・
と思っておりましたが、
それは、ちょっと間違いだったかも。
テニアン島から生還された金谷安夫さんのページ戦塵の日々 パート5 金谷安夫著」によると、
その後20年12月22日に、13名の投降とあります。
大場隊の投降を知り、投降後の処遇などを確認したのち
山を下りたと名簿も載っています。

彼らも、日本兵としての誇りを捨てず、
捕虜としての扱いを拒否していました。

金谷氏著「戦塵の日々 パート1 はじめに」には、
~~~ 平成8年4月17日 ~~~
日本が負けるはずはないと戦争に行ったが、
無謀な戦争であると知ったこと、
そして、多くの血を流したのは若者たちだったこと。
この事を思い、二度と前者の轍を踏まないよう、
後の世の孫子の代まで伝え残す責任を感じ、
拙いペンを取ったとあります。


しかし





12月17日は、飛行機の日
1903年、アメリカ・ノースカロライナ州のキティホークで、
ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が
動力飛行機の初飛行に成功した日です。
この日には4回飛行し、1回目の飛行時間は12秒、
4回目は59秒で飛行距離は256mだったといいます。
なかなか飛ぶのは難しいですねww

栄は陸軍に所属していますが、
陸軍・海軍もそれぞれ航空機を持ち
デザインが違っているんだそうですね。
そうなんだ? 空軍ってなかったの?

栄が子どもに送っている手紙の中に
陸軍の飛行機の絵ハガキ(?)で、
海軍とどこが違うか分かりますかと
言っています。

こんな感じのだったのかなぁ?








栄は中尉に昇進した16年12月、
隊員に訓示をしています。

===一部引用===
栄 16年12月

いよいよ日英米戦も開始せられ、
十分銃後の人々も緊張している事かと存じまず。
吾々軍人もいよいよ以て粉骨砕身
大いに努力せねばならぬと思う。
本日も兵に対し訓示したる事なり。


======


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崎戸丸(日本郵船)は、
 昭和14年(1939)に建造された貨物船(在来型)で、
その要目は長さ147m、幅19m、主機ディーゼル10989馬力、最高速力19.7ノット、総トン数7126トン。


北方警備にいた栄達歩兵十八連隊は、
この崎戸丸で19年2月22日~24頃に釜山を出、
(峯子は、日本に里帰りしていて23日早朝に海城に着いているが、
見送りできなかった:最後の手紙に記述)
翌25日、宇品で武器等積み込み、
師団司令部と師団直轄部隊、歩三八聯(連)隊、歩五〇聯(連)隊とともに
南方に向かったのです。

その後も・・・
ドラマチックな半生が続きます。








日本時間1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、
日本海軍は、休日である日曜日を狙って、
ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に、
攻撃しました。

当時の日本側呼称は、ハワイ海戦(布哇海戦)。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦で、
マレー作戦に次いで開始された作戦。
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失しました。
世界史的には、マレー作戦と本攻撃によって
第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならず
アジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大しました。

当時は、大東亜戦争と呼称していましたが、
戦後太平洋戦争というようになりました。

当時、大場栄はまだ中国大陸の戦地にてこのニュースを聞き、
17年秋から崎戸丸昭和19年2月の運命の南方への出立までは
満洲海城にいました。


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HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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