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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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初詣は、地元竹島さんの八百富神社へ。

お正月は、本殿両脇の提灯が菊の御紋です
毎年、家族連れや若い二人連れなど、多くの参拝客で賑わいます。

正月以外でも、当時の兵士の家族は武運長久祈願に
普段から神社にお参りをしていた様です。
大場家の人々は、特に信心深く、
栄の父親は毎日の五社参りを欠かさなかったとか、
峯子も小さな子を連れて本宮山に登ったりしています。
本宮山からは富士山も見えたらしい。
今でも見えるんですか?

栄が戦地で戦傷を負ったとき、
こんなに軽く済んだのは君たちのおかげ」と言っています。
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10月14日は鉄道の日だそうです。

栄と峯子のお手紙にも、
鉄道の話題はいくつも出てきます。
思いでのみかん畑を通ることになるらしい弾丸列車のはなし
列車で移動する兵隊さんを見て栄と見間違えた話し
戦地に向かう新兵の駅での見送り
門司まで栄を見送った帰りに長男と車内でのエピソード、
妹婿に会いに行った浜松の辺りのアクシデント
あれこれ鉄道の出てくる話がありますね。
宝飯銃後新報は、発行は月2回、1日と15日で、
1号は4面で構成されています。
前記事号の3面には、
「新嘉坡(シンガポール)の陥落を待って 郡では自粛の万歳行進」
とあります。
続いて、1面記事の衣料切符制の関連記事もありました。


大場隊の目覚ましい活躍
でシンガポール陥落はしたのですが、
記念行事は自粛で小規模におこなわれたようです。
峯子の手紙には当時の新聞のことが言及されていて、
17年2月11日出しの手紙(栄の怪我を知り、野越え山越え看病したいの手紙)にも、

===一部引用====
峯子 17年2月11日

ラジオニュースが、しきりとシンガポールのニュースを報じています。
九日午前零時から続々敵前上陸していますと、
昨晩臨時ニュースで申されました。
さすがの抗日摩都シンガポールも、
余命幾何もなく陥落する事と存じます。


===一部引用===
峯子 17年2月21日

前日は新嘉坡(シンガポール)陷落祝賀日(第一次戰勝祝賀日)が
午前中でございましたので、午後から御手伝いが出来、
夜は大勢の孫や曾孫で仏様にお詣りいたしました。


=====

と、祝賀の模様も書かれていました。






17年2月1日1面のトップ記事は、社説で「衣料点数切符制」です。
本文「いよいよ1月20日から「衣料点数切符制」が即日実施・・・」とあります。

衣料品の切符制度については、
峯子の手紙にも書かれています。

===一部引用====
峯子 昭和17年1月21日

一月二十日を期して衣服の切符制が発令されましたので、
二月一日からは切符がなくては何にも買えなくなりました。
(但し、繊維製品だけですが)一人一ヶ年八十点頂けますが、
ハンカチでも靴下でも点数なしでは買えませんから、
貴方様の防寒衣類は、是非ともお求め置き下さいませね。


======

社会も生活の困窮が彷彿とする大変な出来事ですが、
実は、このお手紙、この部分に続く内容がまたまた大事件だったです。
栄は1月の猛攻撃で負傷し、
新聞にも「大場中尉負傷」と報じられるのですが、
静岡出身と書かれていたので、
怪我をしたのは、本人なのか別人なのかと
峯子や家族はその真偽が分からず心配した手紙だったのです。
このドラマティックな出来事は、栄の手紙が届くまでの間
峯子は不安と闘いながらも覚悟を決めます。
激しい戦いで怪我をした大場中尉の記事(誤報)は、新愛知新聞には載っていますが、
宝飯銃後新報には、殊勲と讃えた記事のみのようです。
(1カ月以上経ってからの3月1日「長沙市街戦に殊勲の大場中尉」と出ています。)
(出版本には、この引用部分は非掲載になっています。)





戦時中に発行された「宝飯銃後新報」の復刻版閲覧が可能になったと
東日新聞(2016.4/9)に記事が出ていました。

記事内容:
大場栄は筆まめで、新聞社などに良く投稿していましたので、
関連記事があるかもしれません。
一度調べてきたいと思います。

====一部引用===

栄 昭和13年2月10日
(前略)
遠くに来ていると、気になるのはお前達の事ばかりだ。元気だろうね。
あまり便りが無いので、僕は心配している。
もし手紙を書く暇が無かったら、三谷で古新聞でもいいから毎日送ってくれ。
出来たら慰問品も送ってほしい。 
俺の豊橋市役所に送った手紙が新聞にあったそうだが、手に入ったら送ってくれ。
明日は紀元節。内地にいたら三大節で学校も日曜であろうか。
僕等も明日は揚子江に沿った有名な○○砲台で遥拝式が行はれる筈です。
また、祝賀会もあります。

=====



東日新聞(2016.4/9

「宝飯銃後新報」閲覧可能に

戦時中の旧宝飯地域知る貴重な資料/閉架書庫資料のため貸し出しは不可
/蒲郡市図書館


2016/04/09


 戦時中に発刊された地域新聞「宝飯銃後新報(ほいじゅうごしんぽう)」の複製が、蒲郡市宮成町の市立図書館で閲覧できるようになった。戦意高揚に主眼を置いた内容だが、蒲郡を中心に豊川、豊橋の一部を含む旧宝飯郡地域を知る貴重な資料だ。


 実物は同市博物館所蔵で、先月まで開かれていた企画展で初公開された。残存部数は少なく、幻の新聞とされる。〈東洋総愛新報は宝飯銃後新報として甦生しました〉の一文がある1939(昭和14)年8月1日号が初号とみられ、以降5年分が保管されている。

 発行は旧蒲郡町の「宝飯銃後新報社」となっている。

 1部は4ページ前後で月2回、発行されていたらしい。戦況のほか、戦死した軍人の葬式の報、子どもたちから兵隊へのメッセージなど戦時色が濃い紙面だ。

 閉架書庫資料のため貸し出しは行っていないが、カウンターで請求して閲覧することができる。

 問い合わせは、市図書館=電話0533(69)3706=まで。


2月3日は、ごろ合わせで「ふみの日」と思ったんですが、
郵政省が1979年に制定したのは7月23日だそうです。
主旨は「手紙の楽しさ、手紙を受け取るうれしさを通じて文字文化を継承する一助となるように」と、郵便物の利用促進を目的にしています。
このブログでも郵便にちなんだ記事はいくつか書いています。
ふみの日
手紙の力
無音
俸給のつかいみち
「手紙の頻度
郵便事情
軍事機密

こうしてみると、大場ご夫妻は、
郵政省から表彰状もらってもよいくらいお手紙を書いてますよね。
現代では、ファックス、メール、LINEといった早くて便利な通信手段がありますから、
なかなかお手紙なんて書けないですけどね。

2月いっぱいは、ホテル竹島で展示会開催中です。
ほんの一部のお手紙の紹介ですが、
なかなか手にできない資料も置いてありますので、
どうぞお手にとってご覧ください。

山の日ができるそうですね。

昔から、信仰対象として「山」は神様に近い?ところのようで、
戦時中もお祭りの神事は縮小しても途絶えることなく続けられていました。
峯子や家族も、栄の武運長久と無事帰還の祈願に
本宮山へ登っています。
富士山へも行きたいとか弟の富士登山についての手紙もありました。

ニュースより
2016年から8月11日を「山の日」と定める改正祝日法が23日、
参院本会議で自民、民主両党など与野党の賛成多数で可決、成立した。
改正案は9党の共同提出で、山の日の意義を「山に親しむ機会を得て、
山の恩恵に感謝する」とした。

1932年の4月24日、
目黒競馬場で日本初のダービー(東京優駿競争)が開催されたのを記念して
日本ダービー記念日となりました。

イギリスのダービーステイクスに傚って企画されたそうです。
出走は19頭で、優勝したのは1番人気のワカタカでした。

ダービーは元々、第12代ダービー卿が始めたロンドン郊外で開催される
サラブレット3歳馬ナンバーワンを決めるレースの事で、
イギリス競馬界最高の行事でした。
後に、日本を始め世界各国でそれに傚った
「ダービー」という名前を附けたレースが開催されるようになったということです。
「今日は何の日」4月24日より)

栄の馬は、白星という名で、可愛がっていたようですが、
どうも性格は主に似るようで、せっかちだったとか?



栄の好み・人柄カテゴリーを読む
今年は貝毒が発生した蒲郡のアサリですが、
もう、大丈夫ということで、潮干狩りも再開されました。

三谷の港辺りは、栄も釣りをしたという事ですが、
峯子の手紙には三谷漁港竣工の事も書かれています。
工事は緊縮財政時代?で大幅に予定より遅れたとか?
昭和4年の西宝新聞に関連記事が載っていました。



昔からの新聞とってあるんですねぇ。


3月7日 は 消防記念日 だそうですね。

1948(昭和23)年、「消防組織法」が施行された日です。
明治憲法下では、警察の管轄とされていた消防業務が、
この日から市町村長が管理する「自治体消防制度」となりました。
これを記念し、1950(昭和25)年に、国家消防庁(総務省)がこの日を制定しました。

峯子の手紙に、町内の火事のことを書いているところがあります。
それも、日ごろの消火訓練が役にたったと得意げです。
銃後を守る暮らしの時代でした。


10月14日は鉄道の日、
新橋から始まる東海道線の沿線各地の読みこまれた
鉄道唱歌東海道編」は、地理教育の一面もあるとか。
その30番に、豊橋・豊川と蒲郡が登場し
「♪東海道にてすぐれたる 海の眺めは蒲郡♪」と歌われています。
この歌詞は、蒲郡南駅前の碑に刻まれています。
まだ東海道線も電化される前は、
蒸気機関車の汽車が走り、
力強く煙を吐く姿は、当時も子どもたちに人気だったことでしょう。
童謡「汽車ポッポ」なども流行ったようです。
大場栄の長男、一弘君も「シャポッポ」と歌ったと思いますよ。

峯子は、蒲郡駅や三河三谷駅で、また豊橋駅でも
多くの兵士を見送ったり出迎えたりしています。
また、南方に発つ栄をそれとも知らず見送ったのも、三河三谷の駅だったと
峯子最後の手紙にも書かれています。
また、16年夏に一カ月の一時帰国から戦地に戻る栄と別れがたく、
東海道線。山陽線を乗りついで、下関までも見送りについて行っています。
人や物資の移動にも、東海道線は、大きな役割を果たしていました。








広島と長崎の狭間にある豊川空襲(とよかわくうしゅう)は、
1945年8月7日。
第二次世界大戦中
豊川海軍工廠へ行われた大規模な空襲で、
この空襲で豊川海軍工廠は壊滅し、
勤労動員されていた中学生・女学生・国民学校児童が多く亡くなられました。
豊川稲荷駐車場に、「海軍工廠戦没者供養塔」があります。


【 豊川海軍工廠 】
 豊川海軍工廠は、海軍兵器の生産を目的として、
昭和13年に旧宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村にまたがって建設することが決定され、
昭和14年12月15日に開庁しました。
機銃及び弾丸や艦船で使用する測距儀、双眼鏡、射撃装置などを生産し、
機銃の生産に関しては日本最大の規模で、東洋一の兵器工場といわれました。
工廠の発展は、人口の増加や各町村の結びつきを強めることとなり、
豊川市の誕生・発展に大きな影響を与えました。
しかし、昭和20年8月7日の米軍B29爆撃機などによる空襲で
壊滅的な被害を受け、2,500名以上の人が犠牲となりました。(豊川海軍工廠展より)
以前にもたびたびご紹介している
新城出身の小笠原久雄さんの残されたお手紙には、
郷里近くの豊橋空襲の事を聞き、遠く福山で心配する様子が書かれています。
手紙集「明日からは百姓になります」に収録。
また、8月豊橋での展示会にも
一部展示しますので、ご覧ください。



1945年6月19日夜半から20日未明にかけ
米軍機B29爆撃機136機が豊橋の町を襲い
焼夷弾による空襲で
市街は焼き払われ、死者624人、被災者71,502人もの
被害がでました。

市街地が戦場となれば、多くの市民が犠牲になります。

豊橋空襲を語り継ぐ会では、
毎年この時期に、
二度とこのような惨禍を引き起こさないように誓い合う日とし
追悼碑のある湊町公園で灯篭流しをしています。

関西の首長の発言が、問題となって取りざたされています。
従軍慰安婦問題ですが、
国際感覚の無さと、女性蔑視の意識にあきれます。

男性の一方的な都合でなされた過去の恥ずかしい行為ですが、
当時の軍隊では公然となっていたようで、
妬きもちやきの峯子は、大変心配をしていて
栄が戦地へ出向く前に
「約束」してほしいと、栄に念押ししています。

誠実な栄は、きっと約束を守ったと思います。
「栄の人柄・好み」カテゴリーの記事を読む







愛鳥週間ですね。
鳥の子育てシーズンです。
でも、ホトトギスは、托卵する鳥として色々な意味を持って使われますが、
徳富蘆花の小説「不如帰」は、ベストセラーになり、
お芝居や映画にもなりました。
日清戦争を背景に、戦争に行った夫を待つうち
病死してしまう悲劇のヒロインのストーリーです。
主人公に共感する背景があったのでしょう。
栄の手紙の文面にも、
「ホトトギス」がでてきますが、
ホトトギスでもあるまいに、凱旋を楽しみに待てと、
峯子の悲しみ・寂しさを払拭するよう
離れていると却って愛情が増すとも言っています。


峯子さんのお手紙には、
常に、夫への敬いの気持ちが文面にあふれています。
忘れていたような美しい日本語の表現が多く、
その他にも忘れられていたことにも気付かされることが多々あります。
今では死語(?)のような敬語がよく使われていて、
普段のわたしたちの生活を反省させられる事も多かったですね。

当時の方たちが皆そうだったのかどうかは不明ですが。


今年は巳年で、竹島八百富神社が春の大祭を行うため、
朝から花火が上がっています。
通常年は、秋だけに行われるものを
12年に一度は大開帳もある春祭りをします。
三谷の天白神社の春祭りは、
4月の第2日曜なので、来週です。
蒲郡市の指定無形文化財になっています。
江戸時代から伝わる御神楽が有名です。
栄と峯子にも思い出の御神楽芝居です。


「思い出の場所など」カテゴリーを見る
峯子には妹2人と末に弟がいました。
お手紙には益ちゃんとして
自転車旅行など、時折話題に出てきます。

===一部引用===
峯子 13年3月末か4月初めごろ
益ちゃんも、やっと待望の高等商船学校に
入学出来る事になりましたので、
非常に本人も喜んでいます。
五百余名の志願者中、五十名定員だとか申していました。
中旬には入学で上京する筈でございます。

====

【注】益夫:その後海軍に入隊、
      17年9月に入営の前に家族そろって祝賀の記念写真を採っています。
      大尉に昇進、戦後(?)、
      三谷八剱神社に寄付の石碑が残っています。


そろそろあちこちで桜の便り。

春を代表する花ですね。
日本人はどうしてこうも桜が好きなのでしょう。
花の時期は1週間ほどしかないというのに。
だからこそ、なのでしょうか?
花時に、花見をせんとや出掛けけむ
散り際が潔いと、軍歌にも多く歌われています。
 峯子は、五号の桜には縁がなく1度も見ていないと言いながら
春の大好きな栄に押し花桜の塩漬けを送っています。







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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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