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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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似島(ニノニマ)は、広島宇品港から南を臨むと、
対岸正面に見える稜線の美しい安芸小富士と呼ばれる島です。

宇品は軍都広島の要所、軍艦や船舶のひしめいていたであろう所で
外国へ行くにはここから出て行きました。
大場栄さんが、中支に向かった昭和12年も、この宇品港から出港したのでしたし、
19年2月にサイパン(当初はグアムだったらしい)へ向かう
運命の崎戸丸に乗ったのも、宇品からでした。

似島には、当時、日清戦争時代からの捕虜収容所と
検疫所がありました。
ですから、外国からの船はすべて、
伝染病の検査などで、兵隊も軍馬もここで留め置きになりました。
暁部隊の本部は、もう一つ南の対岸に見える江田島にありましたが、
訓練は、似島の浜でも行われ、
常時マルレのボートを密かに収納した洞窟(?)もあったようです。
第一級の軍事機密で憲兵なども配置していたといいます。
小笠原さんもここで訓練ししていたのでしょう。
手紙の住所にあった大黄地区には、
将校の宿舎などがあったようです。

近くの浜で、猛特訓をしたのでしょう。
当時のことを知る物はほとんど残されておらず
軍が使った桟橋の石組みが残っているくらいです。
資料(似島自然臨界少年自然の家HPより)
原爆の20年8月6日朝、軍のみならず一般市民など多くの犠牲者を
爆心地から船で運んだり救護に当たったのは、
小笠原さんの所属した陸軍船舶暁部隊だったそうです。
(小笠原さんは、8月6日は福山に居て助かった)
島には、救護の甲斐なく亡くなられた多くの方々を
埋葬した千人塚が残されています。
似島に建立された慰霊碑には
今でも、お花が絶えません。


現在の似島は、広島市似島臨界少年自然の家があり、
圏内外から訪れる青少年の野外活動や平和教育の場として利用されています。
地元の研究家M氏、少年自然の家には、
暁部隊の資料をいただき、島内案内もしていただき、大変お世話になりました。


広島見聞記(1)









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似島の暁部隊関連図書
by 大場書簡を読み解く会 2013/04/28(Sun)00:35 Edit
広島市臨海少年自然の家のHPの末席に
似島の暁部隊関連図書として
「明日からは百姓になります」が紹介されています。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa009/four%20sets%20of%20bitter%20fighting%20attacks%20boat.html
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大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
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