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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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峯子も栄も楽しみにしていた三谷祭
今週末の10月日22(土)~23日(日)です。
その三谷の八剱神社の境内にある水神様の所に、
峯子の弟・益夫さん発見!

元海軍大尉・平野益夫の名前で金壱萬円の寄付をしています。
年月は不明ですが、
一万円はかなりの大金だった筈ですから、
ちょっと驚きです。
峯子の父も16年、海軍に一万円寄付したのをを思い起こします。
三谷祭見物にでもいらっしゃいますなら、
石碑を探してみてください。
お手紙の中では益夫さんは、栄と竹島の橋での釣りや、
出征の折りの家族写真などの話題が思い出されます。



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思い出の場所など














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蒲郡はみかんの産地。ハウスも路地もあります。
今年は、なり年って、みかん農家さんから聞きました。
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」本の表紙のカットにもあるように
栄の自宅のあったあたりは、
みかんの畑が広がっています。
そのみかんの畑での出来事は
いつまでも二人の甘い思い出として残っています。

===一部引用===
峯子 15年 10月21日

また、蜜柑の出る頃となりました。
甘いような酸っぱいような舌の感触!! 
二人だけが知っている蜜柑の思い出! 
思い起すたびに甘酸っぱく胸の疼くのを
どういたしようもございません。


====

裏のみかんの木
4ヶ月後には
弾丸列車の工事の為に
切られてしまうことになるのですが・・・・







いくつかある峯子にとって忘れられない日のひとつ
昭和12年10月その日は、激しい雨の日でした。
ですから、雨が降る度
何度峯子は、この日の事を思い出した事でしょう。

===一部引用===
峯子 15年10月10日

今日は十月十日でございます。
どう言う日か覚えていらっしゃいます? 
私達の運命を二分された日、
あの日から満三ヶ年の歳月が夢のように流れました。
たった一夜の宿直ですら淋しく辛く
、お別れするのが、厭だった峯子でしたのに、
良く三ヶ年を辛抱出来たと、
今更我ながら感心だと存じております。


=====
まだ、子どもは7カ月ばかりで
手のかかる頃。
峯子は、一人で育児をしながら
栄の凱旋を待ちます。
一方、栄は、
日華事変のさ中、激しい戦場へと
駆り出され、長い戦場生活が始まるのです。











栄も峯子もロマンチストで、
お互いに同じ月を眺めているかと
月の話題が何度も出てきます。

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栄 14年か?9月

今夜は素晴しい良い月夜です。
十四、五日の月夜と見えて、真ん丸です。
澄みきった月の中に、
お餅を搗くとか言う兎が仲良く働いています。
いつだったか二人で餅を搗いた事もあったっけ。
あの頃も楽しい夢の一つですね。
同じ今夜の澄んだ月を、
一弘とともに貧しいながら
我家の庭で感慨に耽っているであろう姿を
想像しています。


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手紙内容チョットだけよ

昭和17年秋、栄は中支から満洲の部隊に転属します。
その9月を迎えて、センチメンタルな気持ちになったのでしょうか。
5年間の別離を振り返っています。

===一部引用===
栄 17年9月

旧暦の幾日になるか、さっぱり暦から遠ざかって解らないが、
今夜の三日月を眺めて虫の音が耳を傾けていると、
たまらなく秋がわびしい懐しいものになって来る。
淡い感情に浸っている。
(中略)お前達も故郷で同じ月を眺めて、
同じ様な感情に浸っているのでは無いかとそんな事を思う。
何と無く、秋の来た事を感せしむる夜風が頬を嬲ぶらせていると、
(中略)天白様の祭しばいの事を思い出す。
胸をとどろかした若い頃あの頃が懐しい。
五年一昔、夢の様だが
夢の続く限り胸の中を宿っている事だろう。


=====

文中の天白様の祭りしばいというのは、
天白神社の御神楽芝居
まだ結婚前、膝をくっつけて観た思い出のことでしょう。
月の話題は、二人ともに
ロマンチックに書いています。










峯子は三谷にいることが多く、
勤め先の小学校でも日直の際に
窓から見えるほど海の近くなのですが、
海岸まで出ることは、そうたびたびではなかったようです。
子どもを遊ばせるに連れて行ったのは、
乃木山のふもと三谷の海岸だったでしょうが、
思い出の海岸と言えば、
もちろん竹島海岸ですね。
当時はまだ合併前で「宝飯郡三谷町」でしたから、
竹島の辺りの事は、蒲郡海岸と書かれています。
「あの蒲郡海岸からやりなおしましょう」と
ロマンチックな紀元節の事は何度も書かれています。
海水浴の思い出の大島は、
どちらの海岸からもよく見えます。


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思い出の場所など

16年夏に1ヶ月間の一時帰国をした栄。
8月に、栄が隊本部に帰る際、
峯子は別離忍びがたく
病弱な体ながらも、長男を連れて
門司まで見送りに行っています。
その距離800km!?!

===一部引用===
峯子 16年8月13日

出帆が五時になりましたのに、
おっしゃるままに十一時の急行に乗ってしまいました事を、
汽車が東へ走れば走る程、
沁みじみ淋しく存じました。
一時間でも御一緒にいたいと思えばこそ
御見送りに遠くまでお供させて頂いた私だったのに・・・・


=====

途中、名古屋の動物園にも寄り、
無事の帰宅を栄に知らせる手紙です。
門司では、
船の出版時間が変更になったような事も書いてありますが、
立てた予定通りの列車に乗った峯子。
帰りの汽車の中で
またこれから続く寂しさを思い泣いたとも。


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思い出の場所など
===一部引用===
峯子 16年8月

先日、講習会が御津南部小学校にございまして、
五日間出席いたしました。
(貴方様に)お目に掛りたくて、
初めて学校の近くまで伺ったのも、
ちょうど今のように暑い最中だったと存じます。
青い葉っぱに囲まれた校舎をとても懐しく眺めました。
淋しい生活に馴れてしまったものと信じておりましたのに、
ふと甦った思い出に胸が疼くのは・・・・
余りにも大いなる敬意と深い愛故にでしょうか?


====

おでんの思い出のある御津南ですが、
暑い最中に栄に会いに行ったのは、
恋人時代だった時の思い出でしょうか。
きっと、青い目の人形
校長室に飾ってあったでしょうね。


あ、そうそう、海の日でしたね。

峯子さんたちが泳ぐのは、
三河湾に浮かぶ無人島、三河大島の海水浴。

三谷の港・蒲郡の港からも夏だけ渡船が出ます。
(現在は蒲郡埠頭からだけ)

===一部引用===
峯子 17年7月

大島の渡船も、例年通り七月一日から始まりました。
昨日は、高等科の生徒が全部で大島の浜掃除に行きました。
今日の日曜日は、さぞ島も賑わっています事と存じます。
一弘ちゃんが今朝も
「日曜日だから大島へ連れて行ってよ」と申しますが、
忙しいので夏休みにしてね、と延しています。


====

大島での海水浴は、
峯子にとって恋人:栄を見染めた海水浴としても
忘れえない思い出だったのです。
栄が、一時帰国をした16年の夏。
あっというまの一カ月だったと思いますが、
3年9か月ぶりの再会、
栄は、不在の間に成長した息子のこと
周囲の様子など、
浦島太郎さん状態だったのではないでしょうか。
栄もその後のお手紙で、
「ハトが豆鉄砲をくらった」ようだったと書いています。
しかし、ホッとできたのでしょう。
その夏の1カ月で、栄は太ったようです。
戦地に戻ってからの手紙に、
挨拶のたびに肥えたと言われると書いています。

===一部引用===
栄 16年9月

最も体質は「内地に帰って馬鹿に肥えて来た」と
皆の御挨拶□は、途中にて肥えたるものかと存じる。
気持ちの体質に及ぼす影響の影からざるに、
今更も驚き申す。
この言葉理解出来得るや


====

注 □は判読不明文字

1937年(昭和12)7月7日、七夕は、
支那事変の始まった記念日です。
(支那事変というのは戦前の呼び方で、
今では日中戦争と言うのが普通ですが)
そして、後の1944年(昭和19)栄の戦ったサイパンでは
日本軍総攻撃玉砕の日でもあった訳ですが。

峯子にとっては、昭和16年7月7日
栄の一時帰国を名古屋まで出迎え
大きな記念日になっています。
1年後の峯子の手紙に、
その時の事を思い出しての記述があります。
また、七夕の笹飾りも作ったのでしょう、
長男も短冊を書いています。

====
峯子 17年7月7日

一弘ちゃんも、(中略)
一人で短冊を書きました。
天の川と拙いながらどうにか筆で書いてありますが、
終わりまでは書き終せず、
少し母に手伝って頂いたそうでございます。
「僕の書いた天の字は
袴を履いた様になってしまった」
と、言って笑っていましたが、
みな どうにか読まれます。


====

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思い出の場所など
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大場栄さんと峯子さんのお手紙には、
豊橋に関連した話題がたくさんあります。

栄の職場が吉田方小学校だったこと
そのころの官舎が学区のはずれの五号にあったこと
五号でのエピソードは、
その後も託児所の手伝いに出かけたり、
花につけても、
空き家になってネズミの巣になって荒れていないか等
断片的に何度も繰り返し出てきます。
峯子は、軍服買い物に行ったり
子どもを目医者に連れて行ったりの折りに
電車で豊川(トヨガワ)を渡る時にも
五号を思い出しています。

ですから、
来月のパネル展を豊橋で開きたいという理由が
わかっていただけるかと思います。
二人には、大切な思い出のある記念日がいくつもあります。
6月9日も、そのひとつです。
初めてタクシーで五号へ行った日なのです。

期待に胸踊らせて
タクシーに乗ったとあります。
きっと荷物も運び込んだのでしょう。
単に移動の為のタクシーではなく、
当時結婚式を挙げられなかった事情もあって
「嫁入り」と同じような意味を持っていたのではなかったのでしょうか。
峯子の妹の結婚のときにも、羨ましく思う気持ちを察して
栄は、「何なら帰ったら結婚式もやりましょうか?」
と書いています。





記念日は、他にも、
7月7日
10月10日
2月11日(紀元節)などがあります。

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初めての方には、
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暑くなってくると、蚊(マラリヤの媒体)やハエが多くて
夜、うるさくて眠れない栄です。

===一部引用===
栄13年6月
この頃不眠症で困ります。
蚊や蝿の多い故であろうか。
□……。
君だけには……の意味が分かるだろう。


======

【注】
 1、文中□は、読み取り不明。
 2、……の意味については、「蚊帳の思い出」参照


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思い出の場所など

バラの美しく咲く季節。
峯子の家の敷地内にもバラが植わっていて、
花弁をお手紙に同封しています。
思い出の五号には、白いバラがありました。

===一部引用===
峯子 17年5月

数年前に、工場の東出入口に移植したバラの花を、
一昨年倉庫を作る時邪魔になりましたので、
家の前の芝生の所へ植えて於きました。
今年は大きな株になって、五株目下花盛りでございます。
同封の花びらがそれでございます。
純白もエンジもございますが、まだ開花いたしません。
五号のばらも白でございましたわね。
今頃は誰に愛でられているかしら。

======
shirobara.jpg花弁や押し花など、
峯子は郷里の香りと潤いを栄に届けます。



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思い出の場所など
昨夜、手筒花火まつりに出かけましたら、
花火の合間に御神楽隊が出ていました。
竹島のお囃子でしたが、
そういえば、と
思い出したのが、天白社の御神楽。
毎年4月ですから、もう、先月終わってしまいましたが、
天白神社の春のお祭りの御神楽は、
栄と峯子の思い出にも
たびたび出てくる神楽芝居です。
江戸時代から伝わるということで
蒲郡市指定文化財となっています。
今も同じように上演される御神楽を
当時、互いのぬくもりを感じながら
見ていたのでしょう。

峯子が「あなたの懐かしがっていらっしゃったお天白様の祭礼
と書けば、栄も
僕一人ではない、『あなたの』とは片手落ちなり」と

二人ともに思い出のある事を述べています。
みかんの花が咲き出しました?

「みかんの花咲く丘」(作詞:加藤省吾 作曲:海沼実)。
    ♪みかんの花が 咲いている
     思い出の道 丘の道

蒲郡はみかんの産地。
栄の家の近くには主要産業のみかんがいっぱい植わって
みかん畑が広がっています。
みかんの木には、
とても素敵な思い出があるようなのです。
何があったのかは、
想像する事しかできませんが・・・
ですから、「大場栄と峯子の戦火のラブレター」の表紙
みかんの木なんですよ。

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思い出の場所など
吉田方小学校栄が勤めていた頃、
五号という学区の端にある官舎に
暮らしていました。
が降ると、水たまりができて
学校に通う子どもたちを、
村の人が牛車に乗せて送って行ったような所でした。
今では堤防もできてしまっていますが、
その頃は、川べりでよく釣りもしていたようです。
豊川(とよがわ)・六条潟が近く
海産物に関わる方が多かったのでしょう。
五号の人から海苔を貰ったと
栄の手紙に出てきます。
また、峯子も
一弘を連れて六条潟に潮干狩りに行きたいが、、、
と、懐かしがっています。
今朝は朝から雨でした。

==峯子の手紙より==
雨の日は、峯子の心を暗くさせます。
あの日も雨の降る日でした。

===========

あの日」とは、
二人が離れ離れの暮らしを余儀なくさせる
通知の届いた日、
12年の秋、別離の始まりです。
秋雨の降るたびに、
きっと峯子は、寂しく思い出したことでしょう。
この日は、峯子のいくつかの記念日の一つですが、
辛い記念日ですね。

また、ある年は、
託児所のお手伝いに五号に出かけた時も、
記録的な(?)雨が降り続いていたらしい。
栄が中国からの手紙で
「五号へ行っていた頃かと思うが、
豪雨は大丈夫だったか?」
などと書いてありましたから。
峯子は、子どもをおんぶして
ぬかるんだ道を大変な思いをしながら
五号まで歩いたようです。



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二人の「記念日」は、いくつかあります。
そのひとつ、七夕様

栄が一時帰国した16年7月7日、
3年9か月ぶりのお帰りを
峯子は名古屋まで出迎えています。
後に、出張で峯子が名古屋に出かけた時、
偶然、その出迎えた時に歩いた街角で
その時のことを思い出します。
(笹島辺りでしょうか? 納屋橋でしょうか?)
もちろん、栄も
峯子の髪形まで覚えているほど
再開のシーンは、深く記憶に刻まれていました。
この時は、1カ月ほどの帰宅で
離別の間、子どもの成長や社会の変り様で
「ハトが豆鉄砲」状態で過ごしてしまったとかww
峯子も「あなた」と呼ぶのに、
恥ずかしさの為しばらく時間がかかったとか
書いています。

でも、一時帰国の許された期間は、
あっという間に過ぎ
再度の離別の寂しさが訪れます。

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HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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