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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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昭和20年12月1日の朝は、
栄たちサイパン島のタッポーチョ山から下りてきた日、
栄達の「終戦」です。
映画「太平洋の奇跡」にも描かれた
感動的なシーンのひとつですね。
そして米軍の司令官に、栄が軍刀を渡すシーンは、
当時の米軍の新聞にも、写真付きで報道されています。
また、現在でもサイパンの
タッポーチョ山頂やアメリカンメモリアル記念館にも
掲示してあるそうです。

栄は、戦闘中に軍刀を何度か失くしていて、
14年にも支那大陸で55円で求めてますが、
峯子の手紙からすると
16年12月に、日本でも調達しています。
栄が最後まで闘いに携行し
米国に渡ってオークションにかけられ転々とし、
その後何十年も経ち
ドン・ジョーンズ氏が栄に返したという
例の刀は、手紙に出てくるこの峯子が買ったものでしょうか?
それとも?

===一部引用===
峯子 16年12月28日

軍刀がやっと手に入りました。
金百八拾円でございますとか。
値が高いようですが、
非常時も物資騰貴の為、
仕方ないそうでございます。


====









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昭和14年、戦地では厳しい戦いで
仲間は入れ替わって行きます。

===一部引用===
栄 14年秋

僕の留守中に、次々と戦友がそろって逝きました。
裏東会戦、今回の○○戦と、幹部も全部変わっています。
昨夜隊長を招かれて(未だ原隊の復帰しませんが
)将校と一緒に飲んだですが、
半分以上は知らない若い将来ばかりです。
よく変わったものです。
もう大隊では古参です。


======


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戦地の状況
あす10月15日から新聞週間、
日曜日は、新聞の日です。
戦時中、新聞記者は
戦地の模様を国民に知らせるのに
本部や野戦病院にも取材に行っていたようです。
郷里に「僕たちは元気です」と
お国の為に働いていると記念写真も
部隊ごとに撮って載せています。
入院中の栄に
戦闘の模様や怪我の状態など
取材に来ていました。
もちろん、記事は
伏せ字でいっぱいでしたけれど。


栄は、













日中は未だ暑い。
しかし流石に秋だ。
朝夕-はめっきり秋の気分を満喫させられます
。」
という文面で始まる14年ごろの栄の手紙ですが、
4月以来本部に帰っていないとあります。
でも出されたのは秋ですから、
5か月は討伐や掃討に出ているということなんですね。

===一部引用===
栄14年秋

夏服は、本部の方に着いているそうです。
今年には間に合いませんが(来年は着れるでしょう)。
また、どうせ来年、必要になると思う。


====
暑い中支で冬服だったのでしょうか(@0@)!?
しかも、14年の10月ごろは、
愈々寒さの冬を迎えるが
夏服なるも、僕は元気だから大丈夫
などという手紙もありました。
(このときはあわてて冬服を送っています)
過酷な戦地(×へ×)r
栄は17年の秋から満洲国海城に配属されます。
家族官舎に峯子を呼び寄せますが、
長男一弘の入学を心配する峯子に宛てて
満洲の学校のことを書き送っています。
===一部引用===
栄 17年9月初めころ

さて、こちらに来ました。
毎日多忙にまぎれ、便りするのが遅くなって申し訳なし。
ここは一小都市ですが、日本人も相当多く
小学校も田舎の学校より相当立派なのがあります。
幼稚園もありますが、目下保母なき為閉園していますが、
職員さえあれば開かれるそうです。
小学校は生徒は牧山の学校の半数より少し多い程度ですが、
複式でなく設備も相当立派で職員も目下九名だそうです。
一弘の教育には何等さしつかえないものと思います。
ただ、官舎から一粋位あります。
日本人街の中央です。


====

これを見て、峯子の心配は軽減されたでしょう。
でも、その他に心配の種は多く、
9月から旅立つまでの約2カ月は、
あれこれソワソワしながらも
渡満の準備に追われます。
昭和17年も夏過ぎになると、中支の状況も落ち着いたようで
北方満洲の警備に配属されることが決まったようです。
中支戦線とは違い満洲では、
将校には、家族官舎も用意されて
家族を呼び寄せる事もできたようで
峯子に、どうするかと意向を問うています。
お側に行きたいという峯子の返事を聞いて

===一部引用===
栄 17年8月19日

前略。変り無き事と存じます。
牧山及び三谷の御一同いかが
変り無く奮闘せられある事と確信する。
一弘も元気で通園中の事と思います。
私も元気で軍勤に精巧中なり。
いよいよ明日は「海を見る」というても、
君達の顔が見える訳では無いが、その方一歩を踏み出します。


====

文中「海を見る」は隠語で「帰国」を意味しています。
この場合は帰国ではないが、間もなく会えるよう
手続きをするということでしょうか。
このあと、9月の手紙のやり取りは、
渡満の準備に追われることばかりになります。
(内閣情報局発行の『週報』、昭和19年7月19日号 アジア歴史資料センター レファレンスコード A06031056100 から)

サイパン島玉砕陥落の直後、
大本営は陸海軍報道部長談話として、
全国民に次のように通達しています。
「サイパン島在留邦人は六月十五日、敵上陸するや、
老若男女を問わず皇軍に協力一体となって挺身し、
銃を執り得る者は悉く銃を執って、
皇軍将兵と共に敵軍に突入して、壮烈な戦死を遂げ、
また銃を執り得ざる者は
概ね自決して護国の華と散ったものと信ずる。」

「我等は在留同胞のかくの如き殉国精神の顕現にこそ、
日本民族絶対腐敗の潜在力と必勝の信念を力強く感得するのである。
敵の誇示する機械力と物量力は、
時に山嶽崩すべく大海をも翻すべし。
されど絶対に奪うべからずは一片殉国の志である。」



とありますが、
死ぬ気で働く事はあっても、
死ぬ事が国の為になるなんて、おかしいじゃないの?
当時はそう、信じていたってことなんですね。

【参考】
玉砕命令はすでに下されていた
栄の手紙から、
戦地の様子が分かります。
上海から上陸し、逃げる敗残兵を追いながら
掃討を続けている18連隊。
江南の地からの手紙です。

===一部引用===
栄 13年7月9日

六月二十三日 蚌埠出発以来、
一昨七月五日迄○○地区内の掃蕩実施。
二ヶ月振りで前警備地○○に帰還。
逃げ足の速い敗残兵は、遂に戦火を交える事無く 
○○地区以外に追放。よく目的を達成した訳です。
将校斤候も度々出ますが、
いづれも敵無く気合抜けのする様な事です。 
(中略)
雀の鳴声を近く聞き、遠い銀翼をひらめかし
かすかに爆音立て南下する数機江南の天地に、
平末の訪れと存じます。


戦う兵隊さんたちは、楽しみといって
慰問映画や慰問劇団などが一番だったのでしょう。
13年の6~7月頃(旧歴のようですが)
戦闘が一段落して一か所に落ち着いた模様で、
時折、慰問団の事が書かれています。

===一部引用===
栄 13年7月

昨日慰問映画があった。
古いものだが、赤掘源造東下り、
浪花節で言うと、そういう名になる筈であるが、
赤掘源造徳利の別れだったかもしれない。
そんな題のと泣笑い人世だった様に記憶している。
最近映画を観るかい。
その昔は狂に近い方だったが。


=====

当時は、娯楽といえば映画という時代でしたから、
恋人時代の二人は、
デートで映画も楽しんだようです。
峯子の生家の近くには、映画館もあって
足しげく通ったのでしょう。
40℃も越える?暑い支那の地では、
汗かきの栄
水分補給に果物をかじってのどの渇きをしのいでいます。

===一部引用===
栄13年7月

討伐中なんか、水筒の湯は午前中位に済んでしまい、
午後は全く困るです。
然し幸い梨や桃がなっていますので、
これをかんでのどを湿しています。
梨や桃といえば、八菜居(八百屋?)
に売っている大きなおいしい梨や桃を思い出すだろうが、
そんな立派なものではない。
全くの野生種の如きもの。
一弘のにぎりこぶしより小さいもの。
まだそれも、充分色づかないけれど、
何よりのオアシスです。
また西瓜等見つけたが最後、にぎりこぶし位あったら
どんなに青くても、種までかじってしまうのですけど、
体をつかうせいか割合に腹をこわしません。


====
戦地では、ひげが剃れるのは、
落ち着いた状況の時に限られていた事でしょう。
慰問袋にはカミソリが差し入れられます。
峯子は、
縁起もかついで
たまにはサッパリしてくださいと送ります。

===一部引用===
峯子 13年5月

尚、かみそり二丁
「万才カミソリ」の良い名にひかされて買いました。
五~六回は使えます。
この店員の話でございました。
お暇の節は、武者ひげ顔をあたってさっぱりとしてください。


====
お手紙とは時代がずれますが、
太平洋戦争における米軍のサイパン上陸は、
1944年6月15日でした。
7月7日には日本軍の一斉攻撃(玉砕)
7月9日にはアメリカ軍が制圧していますから
ホントにあっという間だったのですね・・・・

サイパン戦の栄の活躍は、
映画「太平洋の奇跡
ノベライス「タッポーチョ 太平洋の奇跡
原作本「タッポーチョ 敵ながら天晴~大場隊の勇戦512日
をご覧ください。
栄の手紙に、
支那大陸は暑いと何度も書かれ、
汗かきには辛いと言っています。
スズメも炎天下では焼け落ちるとも言われる
(ちょっとオーバーかと思いますが)
その温度なのですが・・・

======
栄 16年

今度は、前と異なり何より暑さで大変苦しんだ。
五月というのに、大陸は百度を毎日越しているから。
昔から御承知の汗の多い僕は、
一日中汗を流しておらねばならない。
しかし七五㎝で歩く事を思えば、
乗馬だけ楽な訳で歩兵さんには済まなく思って
いつも追越して行く。


=====

その温度の100℃って、華氏?
摂氏にすると40℃くらいでしょうか?
別の手紙には、130℃というのもあって、
どういう温度計なのでしょうか?
とにかく熱いですね。
16年の頃は、栄の所属の隊は、
どこにいたのか、かなり南の方?
栄はこの頃は豊嶋部隊本部付の少尉で
馬に乗れたようですね。
愛馬は、白星という名前でした。
栄の所属部隊はたびたび変わります。
 上海派遣藤田部隊石井部隊怡工隊大国護隊
 上海派遣藤田部隊石井部隊寺岡隊鈴木隊
 中支派遣軍藤田部隊井出部隊気付 青山隊
 中支派遣 山脇部隊本部
 中支派遣豊島部隊本部
 中支派遣第三七一八部隊土屋部隊大場(栄)隊
 満州国奉天省海城満州第六四七部隊大場隊 等々。
作戦上のことなのでしょうが、
峯子は、手紙や慰問品の宛先に
始終苦労しているようです。
新聞や雑誌もたびたび送っていますが、
妹が女子青年団に入っていて、
そこから送っていたのでしょうか。
しかし宛先が変わると遅配になるので、
栄は、いままで送ってきていた新聞などが届かないと
もう廃刊になったのか?と尋ねています。

===一部引用===
峯子 15年5月
銃後新報は、この頃、
妹が青年団へ出ていませんので
三谷からはお送り出来ないでいますが、まだ出てはいます。
東部の女青の方も、
送っていらっしゃるでしょうとは存じますが、
部隊名がたびたびお変りになって
届かないのではないかと存じます。


======
肩章というのは、軍服の肩に着ける
役職というか位を示すものですね。
こういったものは、軍隊から支給されるものと思っていたのですが、
自分で用意するものみたいですね。
栄が、少尉肩章を送ってくれと頼んだので、
あちこちから届いたとか書いてありましたから。
その他、夏冬軍服や将校になると持てる軍刀など
家族から送るものが沢山あるのに
驚きました。
kenshou1.jpg


kenshou2.jpg


その他にも、峯子は、栄が不自由しないよう、
ワイシャツや下着、など
いろいろ取り揃えて
慰問袋にして届けています。
===一部引用===
栄 13年6月

御送り願ったワイシャツ・靴とその他菓子類、
本六月六日 有難く頂戴いたしました。
少尉肩章も豊橋より一組、家より二組、
一度に沢山手に入りました。
なかなか気のきいた慰問袋で嬉しく思います。

======
軍の決まりで、機密漏れが無いよう
手紙は検閲されていました。
封書には、検閲の判が印されています。


軍としては、
作戦が漏れてはいけないので
地名や軍の規模、行動などを
伏せ字にしていたようですね。





栄自身も郵便の検閲をしていた事もあったと
書いています。
どの兵士の家族も皆
苦労している、滅私奉公だと
峯子を諭しています。

昭和13年 軍歌にも歌われた徐州。
難攻不落と言われた徐州も、
日章旗があがります。
峯子は徐州陥落について、
喜ぶ一方、
その犠牲の多さにも目を向けています。

===一部引用===
昭和13年 5/20

徐州が陥落すると、御祝の旗行列がございますとか。
いずれ追いおいの事と存じます。
その陰の犠牲や苦労を思う時、
戦が一刻も早くすむ様、つくづく祈ります。

=======

麦と兵隊

f9b75222.jpeg
















13年5月16日
栄は、南平鎮の闘い(徐州作戦)で名誉の戦傷を負います。
何度かの戦傷のうち、最初の足の怪我で入院です。

===一部引用===

前略。早速御通知いたします。
己に御承知の事と存じますが、
五月十六日午後五時、南平鎮攻連に於て
名誉の戦傷を負いました。
少くとも除州入場まで
元気でがんばろうと思いましたのに、
激戦第一日終日、
後送の身体となったのを残念に思います。

=====

ただし、傷は軽傷だから直ぐ治る、心配するな
書き添えています。
ハエはどこでも煩いので
「五月蠅い」と書きますね。
支那でも、名物のように?
ハエが沢山いるようです。

===一部引用===
栄 13年5月

支那名物の蚊とハエには全く困ります。
特に蚊は悪性で、
マラリヤ病を発生しますので危険です。
◎かカヤも無く布を頬にかぶって蚊をごまかしています。

====
◎は読み取り不明


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戦地の状況
初めての方には、
このブログの読み方
時折、栄は「科学の勉強」に行っています。
文字通りの科学を勉強していたと読み、
将校は戦術や武器の勉強するのかと、
どんな事を勉強するのだろうと疑問に思っていたところ、
実は、これば「暗号」のようです。
「演習に行く」という意味らしい。

演習中は、本部を離れるので、
しばらく手紙が書けないということを知らせたようです。
それも軍事機密扱いだったのでしょうか。

手紙中には、他にも「海を見る」などの
暗号が使われています。
暗号の他、伏せ字の描写も登場しています。

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HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
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