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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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17年10月、
峯子は栄のもと、満洲海城
長男一弘を連れて渡ります。
出発の日は、定かではありませんが、
10月の末と思われます。

===一部引用===
峯子 10月20日

今日は今から母と豊橋へ買物に参ります。
十一月にご出張とのお便り拝し、
急に予定を変更、十月二十七日か二十八日に
出発いたしたいと大急ぎで支度いたしております。
おっしゃいますように、
出発の際にはまた電話で申し上げます。


======

峯子は栄の指示に従い
幼稚園児の長男一弘を連れ
鉄道と船と乗り継いで行きます。
出立前は旅支度で忙しく、買い物したり
新しい土地の事を心配したり
ソワソワしたりしています。
でも、
栄と一緒の暮らしができる喜びに
毎日があっという間だったと思います。









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栄が支那大陸にわたって三年、
峯子は、栄が心待ちにしている息子の写真
たびたび送っています。
15年秋の栄からの手紙には、
子どもが大きくなってしまって
名前が書いてない写真は、分からないと
言っています。
従兄と一緒に写っている写真が、父親(峯子の兄)に似ているので
その隣の子が息子と分かるという次第。
前後の手紙に、峯子の送った手紙の返事です。

===一部引用===
栄 15年 10月11日

毎朝、国旗掲揚、遥拝、ラジオ体操、訓練とは
大変結構だが、何と無くテレ臭い様な気がする。
世の中もそんな工合に変って来ているかな。
俺は昔の事しか知らないから、そんな気がする。


====

もう三年前が「昔の事」という感覚なのですね。
激動の三年だったからでしょうか。







スポーツの秋たけなわ。
この頃の小学校は春に運動会をすませてしまう?
当時はまだ、体育の日(10月10日)は
制定されて無かったですが、
運動会は秋というのが恒例のようでした。
栄も峯子も、学校という職場ですから
秋の大きなイベントで、大変だったでしょう。
栄の手紙の中に
ちょっと面白い一文があります。

===一部引用===
栄 16年10月

 秋は行事が多く、何かと多忙の事と存じます。
運動会、学芸会、書き初めの準備等、
何かと苦労の多い事と思います。
君に勤まるかしらと心配しています。
もっとも女は案外くそ度胸がいいから。
 何時だったか、確か運動会の慰労会の時、
女の人も一緒に料理屋に行った事も一度あったが、
君の所はそんな事はあるまいか。
嫌だな。別に妬く程も無いかね?


=====

きっと、イベント終了後の慰労会で、
酒の席に女教師も同席することを
ちょっと心配しているようですね。







峯子の手編みのセーターは、
16年10月6日の手紙に、
九分通り出来上がったと書いてありました。
送ったのは11月になってからのようですが、
栄の催促もあり、遅くとも1週間後くらいに着くと思っていたのが
隊が変わってしまった為、
「お手元に届くのが遅くなることと思う」と峯子は書いています。
二人の意に反し、2か月もかかることになります。
やっと届いたセーターに、
栄は峯子のまごころを温かいと感謝します。

======
峯子 16年10月6日

夜毎に真心こめて一針一針編みました袖なしセーターが、
やっと九分通り出来上がりましたから、
後便でお送り申し上げます。
今度は峯子も上手になりましたから、
そんなに変な恰好ではなかろうと存じます。


====











10月1日は、日本酒の日だそうです。
新米で酒造りを始めるのが10月で、
酒壺を表す「酉[とり]」の字は十二支の10番目、
さらにかつては「酒造年度」が
10月1日から始っていたことから(現在は7月1日から)、
何かと酒に関係の深いこの日を、
清酒をPRする「日本酒の日」とした。

栄は、酒はあまり飲まなかったようですが、
ささやかな夢は、
帰ったら土曜日の晩くらいは
晩酌で1合くらい飲みたいと言っていました。
峯子にお酌ができるのか?と
危ぶんでもいましたが・・・・

















17年9月ごろに満洲に配属になった栄は
峯子と長男を呼び寄せますが、
そのときに
来るときに次のものを忘れずに持ってきてください
と頼んだものがいくつかあります。
そのリストというのは、

1、掛け軸
2、勲章
3、指揮刀
4、春撒き種子

このリストを見ると、
1番が掛け軸とか、種とかって
書画や草木を愛でる・・・
なんとなく栄の人物像が浮かんでくるような気がしませんか。

3番の指揮刀というのは、
サーベルのようなものらしい。
軍刀では教育に重くて不便なり
と言っていますので、
長さも短く(?)軽かったのでしょう。
親戚筋の方々の記憶にある
一弘が軍刀を背負って満洲に行ったのは、
この指揮刀だと思われます。
(参考:編集長の日記





















17年、峯子が満洲行きを決め一歩を踏み出す秋、
(まだ婚家に話していないようですが)
峯子はただ嬉しくそわそわしています。

===一部引用===
峯子 17年9月11日

まだそんなに急にお会い出来ない事でしょうと
思いつめていましたのに、十一月と伺い、
何から支度いたしましょうかしらと、
昨日今日は唯嬉しさにお仕事も手に付き兼ねて
一人でそわそわいたしています。


====

同じ手紙に、
平野家一族が集まった様子も書かれています。
その頃、父母は、弟の入営で
気持ちがいっぱいだったでしょうから
峯子は、自分の満洲行きを告げられず、
気を許した妹に最初に打ち明けたようです。

【注】
この手紙では出発は
17年9月22日
弟の益夫のお祝いで、家族が集まり、
記念撮影しています。

==一部引用===
峯子  17年9月23日

益夫さんの首途を祝しての記念でございますが、
峯子達にもまた
意義深い思い出になります筈と嬉しく存じます。


====

その時撮ったのが、
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」の巻頭写真にある
平野家一同の写真だと思われます。
勲章をつけた父、中心に弟益夫
嫁に行った妹たちも揃って写っています。
まもなく入営というあわただしい中、
家族での記念撮影です。
その時の賑やかな様子を峯子の手紙では

===一部引用===
峯子 17年9月20日

香根子達も、一昨日から参っておりますので、
共に喜んでくれました。
文子と令子、孫が皆集まりましたので、
賑やかい事ったら、
食事の時等余りあっちやらこっちやらで
色々と話しかけられて、
ご飯を何杯頂いたのか忘れてしまいそうに騒がしゅうございます。


====

このとき、香根子たちが喜んでくれたというのは、
峯子が栄の元に行くとの決心
打ち明けたことだったのでしょう。
栄もその準備を進めています

豊川のハートフルホールでの展示会にも
通路にこの写真を掲示しておりましたが、
見ていただけたでしょうか?
峯子17年秋の手紙に
豊橋の教導学校(下に注)の生徒が、三谷に演習と書かれています。
生徒たちは、形原から豊橋までもちろん歩くのです。
25km?くらいありますよね?

===一部引用===
峯子 17年9月11日

今朝、豊橋教導学校生徒千五百名、三谷へ演習に来られました。
昨夜形原に宿泊されて、今晩学校へ帰られるのだそうです。
残敵を掃蕩しつつの行軍とか。荷物の重みと歩行軍の疲れとで、
軍服も汗グッショリ。頬を流れる玉の汗をぬぐいもせず・・・
本当に兵隊さんは偉いと思いました。
丁度家の前で十五分間休憩でしたので、
砂糖水、氷砂糖、お煎餅等有り合わせの茶菓を差上げましたら、
大変喜んでいらっしゃいました。
戦地にお出での皆様のご労苦の程を思いやり、
本当に尊く感じました。


====

峯子は、戦場ではこれとは比べ物にならないと
遠く戦地の兵隊を想っています。


【教導学校】
1927年(昭和2年)7月1日
「陸軍教導学校令」(昭和2年勅令第212号)が制定され、
歩兵科の下士官候補者を養成する教育総監管下の陸軍教導学校が、
仙台、豊橋、熊本に設置されています。
官候補者の教育を実施した。
1938年(昭和13年)3月
「陸軍予備士官学校令」(昭和13年勅令第139号)が制定され、
豊橋校に予備士官学校が併設されました。
1939年(昭和14年)8月、
豊橋校での騎兵・砲兵科の下士官候補者の教育は廃止。
その後、全面的に予備士官学校に転換が図られ、
教導学校は1943年(昭和18年3月29日勅令第221号により
同年8月2日に廃止されています。
手紙の文頭には、季節感を盛り込んで書き出すのですが、
峯子は、5~7日ごとのお手紙にも
それぞれいろんな表現をしています。

たとえば、秋ごろのお手紙をいくつか

===一部引用===
15年9月

窓から流れ込む秋の夜風に、
笛の音が解け入って静かに胸に響き、
乙女の日の思い出をかなで、
泉の如く懐古の情を湧き立たせてくれます。



16年9月

二百十日も事無く過ぎ去り、快晴の日のみ続きます。



17年9月

昨日の雨で今朝はめっきり秋影色になり、
稲も一面に穂を出し始めました。


===

とかいった具合です。

忘れがちな日本の四季の美しさを
思い出すようなお手紙ですね。




峯子の出すお手紙には、文末に月日が書かれています。
栄の戦地は、転々と移動しているので、
栄が手にするまでには、かなりかかっていたようです。
一か所に落ち着けた頃はそうでもなかったかもしれませんが、
15年の9月6日に栄が手にした3通は、

===一部引用===

峯子、便りありがとう。
八月十三日出の普通便、
十六日、二三日出の航空便を九月六日入手。


====

とありますので、
普通便で3週間以上、
航空便でも2週間近くかかっていたというわけですね。
これでは、まだ返事が来ないうちに
次の手紙を書いているのですから、
話がトンチンカンになるのも頷けますし
栄が、切手を余分に貼っても航空便がよいというのも
そうでしょうと思います。
ちょっとした行き違いから
たまには、夫婦喧嘩のような諍いもみえます。



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手紙内容チョットだけよ
戦場中支の揚子江にはワニがいるという事を
幼い長男の一弘君は、動物園で知ります。

===一部引用===
峯子 16年8月

「一弘ちゃんが『お父ちゃんのお船、
鰐がひっくり返してしまうかしら』と、
とても心配そうに聞きました。
鰐一匹位何程いたしましょうか? 
また生捕りにでもなさいましたら、
峯子にはハンドバッグでもして
お土産に持って来て下さいませね。ホホホホ・・・・


====

と、冗談におねだりする峯子です。
当時、ワニ革の財布は100円くらいしたとありますから
ワニ革のハンドバッグは、かなり高価なものだったでしょうね。



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手紙内容チョットだけよ
昭和11年の夏、栄は十八連隊の豊橋舎内にいます。
1カ月の兵役があともう少しで終わるという頃、
休みには、峯子と五号で会おうという誘いです。

===一部引用===
栄 11年 8月22日

明日は日曜だから、前便で知らせた様に、随時検閲で帰れない。
二十四日も同様。多分二十五日が日曜代理になる事と思うが、
未だはっきりしない。
二十五日が日曜(代休?)になれば、朝早くから外出しようと思う。
二十五日には、お前の言った様に、五号で会おう。
俺が外出したら、電話でもかけるから、早速支度をして五号へ来るがよい。
僕は先に行って待っているから。


=====

「五号の家は、俺達のスィトホームだね、峯子。」という栄は、
指折り数えて、デートの日を待つのです。

この手紙の峯子の返事は
旧暦の八月十五日という日は
秋の真ん中の月の真ん中の日、
つまり秋全体の真ん中の日と考え、
この日のことを特別に「中秋」と言うことがあります。
旧暦の日付は空の月の満ち欠けの具合によく対応します。
15日の夜の月は必ず満月か満月に近い丸い月が見えたことでしょう。

栄も峯子もロマンチック
月を見ながら、
お互いに「月を見てるかい?
月の面に峯子が写っていませんかの?」と
満月の空を見上げています。

昔から満月の「十五夜」だけでなく、
16日の月を「十六夜(いざよい)」と、
呼び名は毎日変わります。
17日の月は「立待月(たちまちづき)」、
さらに次の日は「居待月(いまちづき)」、
またさらにその次の日は「寝待月(ねまちづき)」と呼びます。
月が出てくる時間は日に日に遅くなるので、
十六夜の次の日は“立って”待ち、次は“座って”待ち、
“寝て”、名月を待つという呼び名があるくらい
名月を楽しんだのですね。


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手紙内容チョットだけよ
一弘君が8カ月の時に、栄は出征したので、
5歳になるまで、父親は
「毎朝、手を合わせる写真の人」だったことでしょう。
しかし一時帰国
父親像がしっかり刻まれます。

===一部引用===
峯子 16年8月

お父様のお顔を知らなかった一弘ちゃんにも
しっかりと覚え込ませ、
尊敬と小さい誇りとを得させた事は
本当に大きな喜びだと存じます。
あれ以来、御教訓が幼いながら身にしみました如く、
素直な子になりました。
「お母様のおっしゃる事をよく聞いて、良い子になりなさい」
このお言葉を誓詞となして、
練成して行きたいと存じます。


=====

「あれ以来」というのは、
一時帰国の時に栄が一弘君に
何か言い聞かせしたのでしょうか?
栄も、15~16年ごろから一弘宛の手紙を書いています。
16年の栄の一時帰国のあと
再度の離れ離れ生活が続きます。
峯子は、寂しく思いながらも
心強く生活しようと健気です。

===一部引用===
峯子 16年8月

瞬く間に過ぎ去った一ヶ月よ!
でも色々な楽しい思い出だけは、胸の中に何時までも
燃えています。
再会
その日まで、一弘と共に思い出をまさぐりながら、
強く生活して行こうと存じます。


======
栄は、峯子の手紙が届かない
といってはがっかりしたりムシャクシャしたりしていますが、
峯子は筆まめに書いています。

===一部引用===
峯子 13年8月

便りを書き始めると、
あれもこれもと、書く事ばかりで
つい長々と読み飽きそうな程でごめんなさいね。


====

栄の遠征中の間でしょうか?
4月~7月にたった3通でがっかりしたとありますが、
その頃の峯子の手紙で該当すると思われるのは
4/10、4/20、
5/1、5/9、5/10、5/20、5月不明
6/1、6/9、6/15、6/23、6/27、6/28
7/7、7/16、7/29、
少なくとも16通はあります。
平均すれば1か月に約4通くらいも書いていたのですから。
きっと郵便事情があって遅れてすぐには届かなかったのでしょう。
何かの加減で、
一度に50通も受け取って
クリスマスプレゼントをもらった子どものように
はしゃぐ栄の手紙もありましたから。

栄の所属はたびたび変わっています。
峯子の出す郵便のあて先は、
一か所に留まらない進軍中、
栄の所属の隊の名前で出されます。
でも、隊名が変わると、転送されて
手元に届くのに時間がかかっています。
早く知らせたい時には航空便を出しています。

===一部引用===
峯子 13年7月29日

航空郵便本日(二十九日)拝見いたしました。
折角お馴れなさいましたのに、
どうして部隊をお変わりなさいますんでしょうね。
昨日、コーヒー、あづき、御煎餅等少々お送り申し上げました。
まだ航空便を頂いて居ませんでしたので、
元の怡土隊宛にお送りいたしました。
本当に惜しい事をいたしたと存じます。
(お手元に届くのが)遅れます事と存じますから、
また近いうちに都合して何かお送り申し上げたいと存じます。

====
今年も、日本列島を大きな台風が狙っています。
昭和16年の8月には、四国に大きな台風が上陸していたようです。

===一部引用===
峯子 16年8月

今朝の気象特報で、午前六時四国へ暴風雨が上陸いたし、
午前九時頃徳山を過ぎる見込とラジオが報じていました。
その為、東海地方も多少その余波を受けて、
海上は浪高くございますが、
農作物には大した被害も無さそうでございます。
午前八時から、新校舎の階上で日直をいたしております。
何時もの碧い海の色はどこへやら。
今日は、泥色で白い浪のうねりが高く、
恐ろしい様な気がいたします。


====

いつもは穏やかな三河湾も
台風の影響で、大きくうねっていた様子が表現されています。
栄は、子煩悩
時折長男一弘君宛ての手紙を
カタカナで書いています。

年月日が書いてないので分かりませんが、
14年ごろと思われる栄の手紙です。

===一部引用===
栄 

オトウチャンヨリ

一弘君へ
キシャガ タイヘン ジョウズ ニ カケテイマシタ。
ゴホウビ ニ ヒコーキ ヲ アゲマス。
オトウサンノ カイタ 
キシャ ポッポ ヲ イレテオキマス。
オトウチャン ハ ヤット キシャ ヲ ミマセンノデ
 ワスレマシタガ
 一ツ ノ クルマニ 「ワ」ガ イクツ アリマスカ。
マドガ イクツアリマスカ、
オシエテクダサイ。


====

【注】
1、 「ヒコーキ」をあげるというのは、絵葉書?
  紙飛行機かもしれないが、
 同封されたものは、残っていない。
2、 文中「ヤット」とあるのは、三河弁
長い間、しばらく、という意味で使います。


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HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
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