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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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日本人は桜が好きですね。
ソメイヨシノが代表的な「日本の桜」って気がしますが、
峯子の桜は八重桜?
塩漬けにして栄に送ります。
===一部転載===
峯子 17年3月21日
八重桜を塩漬けにいたしてみました。
一輪を白い湯飲みに入れて、
上から熱湯をお注ぎ下さいませ。
萎れた様な桜が、満開の八重桜となり、
故郷の・・・・・五号の八重桜
きっと偲ばせてくれる事と存じます。
花の便りを通じて
峯子の真心を思い起して下さいますれば、
こよなき幸せと存じます。


====

でも、栄は
薄めすぎたり、冷め過ぎたりて、
どうもうまく
桜茶を飲めなかったようです・・・・
また、やってみる、と書いていますが。

でも、
桜茶なんて風流ですね。
17年ごろは、
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今日はホワイトデーということで、
クッキーをいただき(同性からですが)気を良くしています。


峯子の手紙の中で、
夢の中の話ですが、
友達と映画を見に行って、、、という部分で、
「同性の友達」と書く所、
「同姓」と綴って栄に間違いを指摘されていました。
本には掲載されていませんが、
このやり取りで、お手紙の出された時期が分かって
記憶に残っている部分です。
峯子は、よく夢を見ていました。
また、映画好きで、栄とデートもしたことでしょう。








まだ水の冷たいうちから
一弘君は、貝とりを楽しみにしています。
三谷や竹島海岸では
潮干狩りと言えば、大方アサリですが、
五号では、シジミもあったのでしょうか?

===一部引用===

峯子 16年3月2日

一ちゃんは時々思い出した様に
「お母ちゃん暖かくなったら五号へ貝々取りに行きましょうね」
と申します。
その希望も、春休みには入れてやりたく存じます。
でも海水に浸るのは、まだ冷たくて無理かしら。


====
===一部引用===
栄 17年2月

寒いといってもすでに二月の事。
間も無く春が来る事と思う。
何分我々の居る所は、楊子江-岸に近く平坦地に□するので、
昔の山の中と異って春の来るのも一足早い事と信ずる。
毎年菜の花が黄色に咲くので、
今年も早く花が咲かないかとそれのみ待っている。


====

【注】 手紙文中□は、判読不明

春の花を思い浮かべ
春を待ちわびる栄です。





===一部引用===
栄 17年2月ごろ

二伸 
次の様になった場合、
どういう具合にするか君の意見を聞きたいのだが、
次の便で返事してもらいたい。
もし家族同伴が出来る様になった場合、
君は如何にせくるや。


=====
17年の1月に、栄は足を怪我して入院していますので
やっと歩けるようになったかどうかという頃の手紙です。
入院中、今後の事を考えたのでしょうか。
12年8月から始まった日中戦争(栄は12年秋から参戦)が長引き、
奥地まで進軍した17年1月の長沙作戦で区切りがついたのでしょうか。
栄は、任地での家族同伴を許されたらどうするか、
追伸で返事を求めています。







大寒の17年1月、
入院中の栄は、を夢見ます。

===一部引用===
栄 17年1月25日

傷口付近が「バンソコー」で毛を抜かれ痛いので、
思い切って毛をそったら、
ちょうど峯子の腕の様になった。
去年夏頃ノーストッキングでいた峯子の脚を思い出した。
春を夢見た。


======

文中「去年の夏頃」とあるのは、
16年7月に約1ヶ月間の一時帰国の際に
家族と過ごした時期です。
この一時帰国の栄を、名古屋まで出迎えた7月7日は、
峯子の中でいくつかある記念日の中でも、
殊更大きな記念日になっています。













さすがに大寒。
日本列島上空は、雪雲が陣取り、あちこち大雪のニュース。
ほとんど雪の降らない蒲郡でも、
今日は日中小雪がちらつく寒さです。

15年の冬も寒かったようです。
雪もよく降っていたと書かれています。

===一部引用===
峯子 15年1月31日

毎日お厳しいお寒さでございます。
大寒に入ってからめっきりお寒く、
雪の降る日も今年は殊更多うございます。
でも、夜分は閉じ込めた部屋で
暖かい夜具に休める身は幸せでございます。
戦地の冬は不足がちの夜具で、
寒さに夜通し寝られないでいらっしゃるのではございませんかと、
将士の方々のご労苦に唯々感謝の言葉もございません。


====

峯子は、何かにつけ栄の苦労を思い遣ります。

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お手紙内容チョットだけよ








17年の正月前後は、
二人の人生の中でもドラマのクライマックスシーンのひとつでしょう。
11月に送ったセーターのことで何度もやり取りをした年末、
恥ずかしい初夢を見た正月です。
峯子は、正月に一年の計をたてています。

======
峯子  17年1月14日

昭和十七年元旦から、
峯子は五日に一通、お便り差上げる事に定めました。
一日から五日までに、暇を見て一通、
また十日までに一通というように。
書けないでしまったら、
次の五日間には二通と思っております。


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このころの話題といえば、子どものエピソードの他
正月明けて、知人や親戚の消息や勤務先や義弟の新兵の事など
比較的のどかな話題が続く中、
17年1月18日の新聞記事から一変し、
不安な気持ちのよぎる手紙になります。














寒中お見舞い申し上げます。
峯子 15年1月の時候の挨拶
===一部引用===

今日もまた、
灰色の空から冷たい粉雪がチラチラ降っております。
寒に入ってからめっきり寒さが厳しくなりました。
戦線のお寒さはひとしお肌をさす事と存じ、
ご労苦の程ご察し申し上げます。


====

「寒」(かん)は、二十四節季の
小寒から大寒までの約15日間と、
大寒から節分(立春の前日)までの約15日間の合計約30日間を、
1年で最も寒い時期ということで、
「寒(かん)」と呼んでいます。
この季節になることを「寒の入り(かんのいり)」といい、
小寒の日がその「寒の入り」になります。
2012年は1月6日でした。


冬の嫌いな栄は、
厳寒の戦線
春を待ち望んでいました。









16年、
栄は出征して4回目の正月を迎えます。

===一部引用===

いよいよ皇紀二千六百年を送り、
茲に光栄ある新春を迎える事になりました。
我々にとってはその後四回目の新春に当る訳ですが、
共に元気でこの新年を迎え得る事は誠に嬉しく存じます。


====

峯子は、学校の展覧会で
♪年の初めのためしとて・・・♪
と歌います。


皆さまにも、幸多い年になりますように。







栄も峯子も筆まめな方たちです。
14年の年末、隊を移動する栄が
荷物の整理をしているとき、
綴じた手紙のことを書いています。

===一部引用===
栄14年 12月年末
峯子から来た手紙でも相当ありますからね。
過日表紙をつけて整理しましたら、
無筆なお前だからいくらも無いと思っていたが、
それでも厚さ一寸位あります。
時々前のからくり返して読んで見ますが、
味があってなかなか面白いです。
僕の分は、もう一尺位あると思いますが、如何ですか。


====

「僕のはもう1尺」は冗談だと思いますが、
栄は自分の方が沢山出している
という気持ちだったのでしょう。
愛情の尺度? www)
「無筆」と言われていますが、なんのなんの
峯子も随分書いています
文中の「一寸」(約3センチ)という厚さは
13年秋に出征して14年12月まで1年チョット分です。
15年末には二寸になり
峯子の手紙ファイルは、その後も2冊に増え
最終的には10センチ近くの厚みになって発見されています。

愛情深いお二人の仲睦まじさに感嘆します。

歴史に残る2011年ももう終わります。
記憶に残る出来事が多々ありました。
よいお年をお迎えください。















15年、栄は戦地にいて
便りを待ちわびています。
当時の郵便事情では、
かなり遅れたこともあったようです。
便りの届かない理由を想像するも、
多忙にまぎれているだろうからとか、
故障の多かった峯子が病気ではないか、
それとも???と
心配する栄です。

==一部引用===
栄 15年12月30日

多忙に取まぎれて学期末から書初めの準備と、
仕事に追われてつい無音に過ごしている事とは思うが、
しかし何か変った事があった様でしたら、
早速通知願たい。


====

ありのままに知らせよとは言われても、
峯子は、
悪い知らせで心配をかけては
士気が下がると、
筆をためらっています。






暮れも28日、そろそろ仕事納め?

峯子は、毎日職場の準備や日直やらで、
なかなか忙しい毎日を過ごしているので、
冬休みになったら、
子どもと一緒に過ごす時間が増える・・・
と楽しみにしていたことでしょう。

===一部引用===
峯子  15年12月29日

二十五日から冬休みになりましたので、
少し暇が出来ました。
二日間一弘のお守りをいたし、
今日は日直で学校にいます。


====












26日は風呂の日。

風呂にまつわるお話。
峯子と長男一弘は、17年11月ごろから
満洲海城の家族官舎に住んでいました。
栄の住まいの状況を知らせる手紙では、
1戸建て?らしく風呂も付いていたようですが、
時折不具合で、風呂に入れず
修理を願っても、担当兵は演習で不在だったり、
現地の修理屋に頼もうと思っても
切符がないからダメダと断られたりして困っています。
栄の同僚(?)のお宅に貰い湯に行くのですが、
奥さまは身重の体で申し訳ないと恐縮して
湯加減も言えずゆっくり入れないと愚痴っていたりします。


18年になってもこういう手紙が残っているのも、
栄と峯子は一緒に暮らしていたのではなく、
兵舎と家族官舎とはやや離れて建っていて
休みの日にだけしか栄が帰って来られずに
定期的に当番兵が行き来してやりとりしていたようです。
1カ月くらい演習などがあって遠方にいると、
峯子に会えずにイライラしてる栄の手紙なども
残っています。



















峯子は15~17年
三谷小学校の教師をしていますが
15年11月その折、研究事業の事に触れています。

===一部引用===
峯子 15年11月29日


今月は色々な行事のみ多くて、
日曜日に恵まれないで暮れてしまいました。
一番最後の日曜日のみは、
出校しないでもようございましたけれど、
木曜日に峯子の算術の研究授業がございましたので、
色々その準備の為、
忙しい思いをいたして一日暮れてしまいました。
研究授業は、夏休前からの峯子の心配の種でございましたけれど、
諺にも「安ずるよりも生むが易い」とか申す事も有る如く、
心配した種の事も無く、
案外良い批評を頂きました事を嬉しく存じます。


======

峯子の教師としての一面も垣間見えます。
学校での話題は、日直の時のお手紙や、
職員室での一コマのエピソードなども
時折書かれています。

現在でも、この時期、
秋の学校行事に、年度末の評価や保護者への対応、
毎日の授業の準備に先生は大変だと思います。
でも、子どもたちの明るい未来を作る
大事なお仕事ですね。


余談ですが、
栄も峯子も教師をしていたので、








流石に日本一の山。
先日、記事にした本宮山の登山道からも
途中富士山が見えるところがあるようです。
峯子も武運長久祈願に何度か本宮山に登っていますが、
最初の時には子どもを背負っていたので
さほど余裕もなかったでしょうが、
15年の3度目の登山には、
富士山の事も書かれています。

===一部引用===
峯子 15年11月18日

峯子も今度で三度登山いたしますので、
山にも大分馴れて、
最初に一弘を負ぶして登った時程、
疲れを感じませんでした。
そんなに快晴でもございませんでしたけれど、
たび々、富士が 姿を見せました。
もう富士も、峯は大分雪の化粧をして
冬の訪れを予告していました。


======










峯子は、栄のいない寂しさを
栄に自慢できる息子に育てるのが使命と、
一生懸命子育てに力を注ぎます。
栄の不在で寂しい思いをしながらも、随所に子煩悩ぶりが見られます。
栄にも、可愛さを伝える書きっぷりがみごとです。

===一部引用===
峯子 15年1月14日

お便り書いているお机の、
すぐ横の黒ビロード衿のお布団の中で、
貴方様とそして峯子の愛の結晶は、
何の苦も知らずスヤスヤと軽い寝息を立てて寝ております。
秀でた聡明そうな額、凛々しい眉、
キリリッと結んだしまりの良い可愛い口、
リンゴのような健康そうな頬! 
一目ご覧になったら、お父様は余りの可愛さに、
きっと頬ずりして下さいます事と存じます。


======

子どもの可愛さを描き表す峯子の感性が、
季節の表現とともに素晴らしいと思います。











栄は、大陸で迎える季節ごと
戦況の変化で微妙に違ってはいますが
なかなか帰れないまま
季節の移りゆく様を綴っています。

======
栄 14年11月

前略。もう毎日、
朝霜が降りたり氷がはったりします。
もうじき大別山の山の頂が白くなることと思います。
上陸以来、満二ヶ年も過ぎ去りました。


====

まだこの頃は、
もう1~2年で帰れるかとも
思っていたようでしたが、
14~5年には、来年もまたここにいるだろうと
予想を述べていましたから。
寒い冬は、いい思い出が何もないとも。








秋の果物、数々あれど、
庭の柿の思い出を栄が語ります。

===一部引用===
栄  15年11月頃

幼かった昔の思い出に懐しいが、
父の時代、俺の時代、そして一弘三代
長く生き延びて子供心を楽しませてくれる。
柿の老木に登って実を採りながら
鋭い百雀の叫声を聞いた昔が偲ばれる。


====

井戸の近くに柿の木があったようで、
実をもいで食べた頃を
枝に飛んでくる野鳥の声とともに
思い起こします。


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手紙内容チョットだけよ














電話番号119に因んで「119番の日」です。

消防庁が1987(昭和62)年に制定したもので、
この日から1週間は「秋の全国火災予防運動」が行われます。

お手紙の中で、何度か火事の話題は出てきます。
面白かったのが、銃後の暮らしを守る
焼夷弾の消火訓練が役に立ったという話。

===一部引用===
峯子  16年10月か?

約一ヶ月程以前に、
三谷町東区に一寸した放火がございました。
こんな非常時に放火なんておっしゃらないでよ。
実は料理屋の芸娘に、
秋田からはるばる売られて来ましたばかりの娘が、
ホームシックの余り、今様八百屋お七になった気で
家が焼けたなら在所へ帰れると思ってなした業でございます。
その火事を、真先に見付けた隣の人が(四時頃)
焼夷弾落下を知らせる合図を思い出し、
バケツの底を敲いて火事をふれ歩いたので、
近所の人も皆バケツを持ってモン平を履いて飛び出し、
一間を焼いただけで大事に至らず消火出来ました事は、
日常の訓練の現われと町民一同の感嘆と絶賛の的でございます。


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HN:
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性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
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