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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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2年前の2011年2月11日は、「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~」の
全国一斉ロードショー封切の日でしたね。
2月11日は、栄と峯子の時代には、紀元節といっていましたが、
二人にとってはそれ以上の大事な記念な日なのです。
恋人時代の2人の記念日の一つで、
蒲郡海岸を散歩したデートの思い出の日です。
というのも、初めての口づけをした日のようです。
峯子は、「接唇」とか「ベーゼ」等と表現していました。
峯子は、結構外来語を使いますね。
この日が、二人の始まりの日であったようですので、
何度も「蒲郡海岸からやりなおしましょう」と書いています。



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先日、ファミリーヒストリーというテレビ番組を見ていて、
ビックリした事があります。
毎回、現在各方面で活躍していらっしゃる方の祖先・親族の
知られざる歴史を紹介するという番組です。
船越栄一郎さんを取り上げた回でしたが、
お父上の船越英二さんは、戦時中、香川県の陸軍船舶学校にいらしたそうです。
そこで、マルレ作戦に関わっていたというのです。

このブログでも紹介しましたが、
小笠原久雄さんの特殊任務マルレといっしょです。
マルレについては、小笠原さんの書簡集「明日からは百姓になります」に、
特殊任務についての説明があります。

私の見たテレビ画面では、一人乗りではなく、
もう少し大きな船でしたが、やはり木造のようでした。
終戦間際で、船の材料も何もなくなってきた頃でしょう。
しかし、出撃すれば、生きて帰って来れない任務ですから
本当に、終戦で命拾いをされたのですね。

多くの人々の犠牲を出す戦争は
もうしません。
合掌
17年の1月、激しい戦いで功をあげながらも負傷した栄。
新聞で戦傷の記事(誤報)を読んで
翌月になっても栄からの手紙が届かず、
心配する家族です。
======
峯子  17年2月6日

一弘ちゃんは、今宵も
お父様はお傷の痛みで御手紙が書けないんでは無いかしらと、
心配そうにお首をかしげて聞きに来ました。
峯子が口に出せば、幼い者の心を憂いにとざされるからと、
なるべく一弘ちゃんの前では云わない事にしていますのに・・・・
以心伝心とでも申すのでございましょう。
峯子の案じて、
でも恐ろしさに口に出し得かりし言葉を、
一弘ちゃんの口から聞かされて益々案じられて参ります。


=====

負傷の程度も分からないまま
峯子は、最悪の場合も頭をよぎり、
覚悟を決めます。

今朝はしとしと春の雨になりました。
昨日が節分、今日が立春ですが、
花の蕾がこの雨で膨らんで、春の開花がぐっと近くなるでしょうか?
自宅の庭の紅梅もちらほら咲きだしています。

栄も峯子も、大好きな春を待ち侘びていました。
峯子は、季節は春になっても、我が世の春(栄の帰還)はいつ?と
何度も何度も書いていました。



峯子の手紙に、ふきぬきホテルが何度か登場します。
14年創業の東洋随一とも言われるほどの大きなホテルです。

===一部引用===
峯子 15年1月31日

乃木山へ富貴(フキ)貫(ヌキ)と申すホテルが
すばらしく竣工いたしました。
観光ホテル程でもございませんけれど、
でも部屋代が五円以下ございませんのよ。
新聞の折込に入って来ました開館披露の名文章、
ご紹介いたましょうか。
東海道に名所がまた一つですって。
随分背負っております事ね。


====
この手紙には、
栄の入院中のこととあり、
まだ返事が届かないのを心配した記述や、
静岡の大火
友人の戦死の町葬
子どものこと
など書いてあり、
最後に
「冬来りなば春遠からじ」
と我が世の春を待ち続けます。
立春間近とはいえ、
二人の好きな春はまだ先のようです。
「第55回ブルーリボン賞」の各部門候補に、
高倉健さんや吉永小百合さん、沢尻エリカさん、前田敦子さんなど
日本を代表する名優・話題の女優さんたちが
ノミネートされています。
今月末には決定されるようで、楽しみですね。
来2月14日の授賞式で、作品賞の上映が行われますが
司会役の竹野内豊さんのパフォーマンスが楽しみです。
ブルーリボン賞は、前年の主演男優・女優が司会を務めることになっていて
竹野内豊さんは、「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~」で大場栄役の
名演技が評価されて受賞しました。
数々の名場面が思い浮かびます。
DVDもでていますから、またご覧になられてはいかが?







栄の手紙には、
ほとんどが年月日が書かれていなくて、
日時・年月不明が多いのですが、
これは、年月の明記された数少ない手紙です。

===一部引用===
栄 13年1月18日
【前略】
俺も元気。
やがて凱戦して、峯子や一弘の側に帰る日を、
未練の様だがおれも待ち兼ねる。
ここもすでに酷寒というであろうか、内地位のもの。
今の生活は、内地の兵営生活とさした変化は無い。
銃声砲声も止んで、
この守備地にも平和な春が訪れるのも遠くはあるまい。


====

兵士として戦争に行く身であっても
であればこそ(?)
平和を願っているのです。

しかし、栄の予想に反し
支那事変(日中戦争)は泥沼に踏み込んだかのように長引き

栄と峯子が海城で一緒に暮らせるようになるまで
さらに5年近くの歳月がかかります。




お正月飾りも、そろそろお終いかしら?
もちい飾りは、
峯子のところでは、おばあさまが作っていましたね。
紅白の餅を、枝に着ける正月飾りです。
旧正月に飾るらしいですが、
地方によって花餅と言ったり、
形も上からしだれる枝につけたり、下から伸びる枝につけたりと
いろいろですが、
中部地方では広く飾られているようです。





年末にも書きましたが、
昨年の1月11日からマイペース更新という方針にしてから
ちょうど1年経ちましたが
3日に一度という、結構ハードな展開www
(良く続いているなあと我ながら感心)
これも、栄さんと峯子さんのドラマチックな生きざまと
お手紙の多さによる数々のエピソードのおかげですね。

このブログの読み方も参考にしてお楽しみください。


年末にできなかった片づけものを、
新年になってからもしてたのですが、
古い資料などの中に、懐かしいものも混ざっていて
いっときのタイムトリップを楽しみました。

「君死に賜う事無かれ」の与謝野晶子さんの直筆の原稿などが
見つかった件。

~~時事通信 1月9日(水)~~

与謝野晶子の直筆103首発見=16首は未発表か―岡山

 歌人の与謝野晶子(1878~1942年)が
岡山県倉敷市出身の詩人・随筆家、
薄田泣菫(1877~1945年)宛てに送った短歌103首の直筆原稿が
9日までに見つかった。
このうち16首は未発表の可能性が高いという。
 原稿はB4サイズの計12枚に黒インクでペン書き。
短歌中の漢字には全てひらがなが振られている。
欄外などに「紫影抄」「秋の薔薇」といった題名や、
「与謝野晶子」の署名が添えられ、
「一度にお載せ下さい」との朱書きもあった。
 いずれも大正期の作で、大阪毎日新聞の編集者だった泣菫に
新聞掲載用に送ったとみられる。
掲載や全集収録を確認できなかった16首に
「うばたまの髪煩はし身の中の焦がれ心はなほ煩はし」
「君がこと浅間の嶽(たけ)のふもとなる落葉松(からまつ)の木が知るよしもなし」
「縁(えん)にいで瓜をくらひて茶すすりぬ貧しき家も夏はよろしも」などがある。 
~~~~

まだまだあるんですね。
大場栄さんの手紙同様
戦争中の手紙なども半世紀以上経って発見された
小笠原久雄さん(新城市)の手紙
陸軍大尉青山泉さん(中津川市)の例もありますし。




まあ、拙家は片付けても、
そんな価値のありそうなものは出てこないですが・・・・








栄がまだ予備役のころ、
峯子との結婚を決意したことが
11年新春の手紙に書かれています。

===一部引用===
栄 11年1月7日
で、俺もこう心に決めた以上、
なるべく早く結婚した方が良策かと思う。
よい日時を遷延して。
(中略)
両方納得さえいけば、
ついでにこちらに来て貰ってもさしつかえないかと思うが、
よく相談してみて下さい。
では右お願いまで。


====

この手紙には、
二人の結婚について
あれやこれやと差しさわりがあって
親戚からも反対があるような書き方がされています。
でも、「そのくらい、何でもない」と
栄の芯の強さ、峯子への熱い愛情が感じられます。
順風満帆といえなかっただけに
二人の想いは強く惹きあい、
長く続く別離も超えて
お互いを支えあったのでしょうね。







新年明けましておめでとうございます。

年頭に、お正月の歌を歌った峯子の手紙です。

===一部引用===
峯子 17年1月2日

また新しい年が訪れて参りました。
明けましてお目出とうございます。
旧年中は色々と有難うございました。
本年もどうぞよろしく相変わりませずよろしく御願い申し上げます。
今日は一日日直で、
学校に展覧会がございましたので大変でございました。
一月一日の歌を大きな声で峯子も歌いました。
♪ 年の始の例とて 終り無き代の
   目出たーさーをー
     松竹立てて門毎に・・・・
歌っている間に、正月らしい気分にやっとなりました。


=====

この手紙に、
配給の餅正月のバザーの思い出
恥ずかしい初夢が続きます。

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手紙内容チョットだけよ





  2012年も大晦日になりました。
昨年は震災で揺れ、今年はその余波で揺れました。
しかし、この夏、もう一つの“戦火のラブレター”として
明日からは百姓になります」の出版で、
まだまだ戦争体験者との貴重な出会いもあった年でした。
今でこそ、今だからこその平和への願いを強くした年でもあったのですが、
来年はどんな年になるでしょうか?

峯子と栄のカレンダーは、
謎かけゲームの
めくっていく(逢う日までが近づく)楽しさと、
またスタートからやり直しの失望とが
混ざった大晦日を何度味わったことでしょう。


新しい年が、夢と希望に溢れますように・・・・



本には掲載されなかったエピソード。
冬休みに入り、
急の思い付きで、峯子は末の妹(菊枝)と一弘ちゃんと三人で、
浜松で入営している福尾さん(妹婿)の処へ面会にいきます。
浜松から、気賀行の軽便に乗り換えて、、、
===一部引用===
峯子 16年12月29日

電車が動きだした途端に、隣に座っておられた見知らない婦人に、
肩をトントンと敲かれて、驚いて隣の人を見ましたら
「貴女方を兵隊さんが駅で呼んでいましたよ」・・・・・
軽便はスピードを出して走っています。
呼んでいた兵隊さん!
福尾氏より外な兵隊さんに浜松等で呼ばれる筈は無し・・・・
次の駅へ下車して電話をかけてみましょうか等と、本当に心配いたしました。
折角ここまで出掛けて、お会いしないで帰宅するのは意味ないし、
次の駅へ来てもまだどうして良いか思案に暮れていました。
ふと窓の外で、日焼けした丸頭の新兵さんが
ニコニコと笑いながら手招きをしておられます・・・・
二両連結の後の電車でいらっしゃったのですって。
「いくら呼んでもお姉ちゃんは済ましていて、
こちらを見ないから万策尽きて飛び乗ってしまった」ですって。
でも危ない所で、
(すれ違ってしまわず)
お目にかかれて本当に良かったと嬉しく存じました。


(注:福尾氏/妹(香根子)の夫)
====

携帯電話の無い時代の話です。







この「大場栄と峯子の戦火のラブレター」ブログですが、
今年の2月に、それまでの毎日更新から
マイペースのブログ更新に方針転換しました。
でも、年末になって振り返ってみると、
100件以上記事を書いているので、
ほぼ3日に一度の更新しているというわけ。
峯子の17年のお正月に、
五日に一通のお便り」のお約束以上ですね。
(ちょっと自慢www)




寒い北風の季節、
栄は峯子や長男の防寒具の心配もします。
峯子は、外出着に自分で仕立てたコートを愛用しています。

===一部引用===
峯子  17年12月23日

峯子は、安物ですけれど、
生地を求めてスワガーコートを作りましたので、
秋も冬も春も、外出にはこれで行きます。
少し冬に着るには生地が薄い恨みはございますが、
皆様は「とてもスタイルが良い」とおっしゃって下さいます。
みさをさんにもきりちゃんにも、
もう良い生地が入手出来ないと困ると思って、
昨冬一緒に仕立てて、クリスマスプレゼントいたしました。
お母様が大変喜んで下さいました。


=====

(注)みさを・きり : 栄の妹たち
当時はミシンで洋裁をする女性は少なかったかも?
おしゃれな峯子は、
皆に褒められてうれしそうです。
一着を大切にしていますね。




最近、定期的にハガキを出しています。
内容は近況報告といったところですが、
ハガキを出すことによる、
郵便屋さんの配達(ご苦労様です)で、
宛先までの道が消えてしまわないようにするための
活動支援です。
手紙にはそんな効果もあったのか・・・と
再認識。
最近は、早くて便利な通信手段がありますから、
ふつうなら年賀状くらいしか書かない??

でも栄と峯子の時代には、
当時の郵便事情でなかなか届かないお手紙が
とても「大切なもの」だったのです。
情報を伝えるだけでなく、
頻度にも気持ちが込められていますね。
先日紹介した栄の手紙の文末に
栄の優しさが表れていました。

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栄の人柄・好み

このブログを書き始めてから2年半、
もうすぐ3度目のお正月を迎えます。(峯子の気持ちが分かるなあ・・・)
記事もたまってきましたので、
ブログの読み方も参考にしてください。




栄と峯子の時代には、戦争中で、
ゆっくり旅行などしていられなかったでしょう。
特に、事情があって、結婚式も挙げていなかった二人にとって
旅行と言えるのは、
16年の夏、
1カ月ほどの栄の一時帰国から隊に帰る時の見送りに、
峯子は本州の果てまで付いて行っています。
(栄は連絡船で門司、門司から朝鮮半島、満州鉄道で任務地中支に行く)
その時のことを、5か月経った12月に回想しています。

===一部引用===
峯子  16年12月17日

下関でお別れいたしまして、早五ヶ月近くになります。
新婚旅行らしい旅行もしなかった私達の
初めての旅行でございましたのに、
お別れ! ばかりを思って淋しい気持だった汽車の旅でした。
今にして思えば、みんな懐かしいことばかりでございます。


======

栄の一時帰国の際、名古屋まで出迎えた7月7日は、
二人の記念日になっていて何度も記述されていますが、
送って行った日付はハッキリしていません。
しかし、峯子の8月13日の手紙がありますので、
途中下車を考えても、8月10日前後がお別れの日でしょうか?
そのお手紙には、門司までって書いてあるんです。
下関まで?門司まで?
それもハッキリしません。m(_ _)m

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峯子の寂しさ




12月も後半に入り、もう半月で今年も終わりですね。
13年の12月、栄は、大別山系の山すそを見ながら
峯子に手紙を書いています。

===一部引用===
栄   13年12月15日
もう十時でトウスミの明りも暗くなり、かつ、
鉛筆も芯が一センチ位出ていてどうやら書ける程度。
眠い目をこすりながらも、どうせたいした便りも出来ませんが、
君が首を長くして待っていると思いますから走り書きします。
(中略)
今日は十二月十五日、
もう後十六日で今年も暮れます。
この手紙のつく頃は来年になりますかしら。


======

トウスミの明かりって何です??

.とう‐すみ【灯心】
《「とうしみ」の音変化》「とうしん(灯心)」に同じ。

ランプかロウソクの明かりで書いていたのでしょう。

この手紙には、知人からの慰問袋の件、今いる部屋の事、
乗馬の事、入浴、子どもの成長について、
そして文末には、峯子への労いも忘れずに書かれています。

===一部引用===
長い間苦労をかけて済まんね。
元気で大切に一弘を教育して下さい。
寒くなりますから御大切に。」

====


このカテゴリーの記事を詠む
手紙内容チョットだけよ
日本は、太平洋戦争に負けて、戦争をしないと
国の決まりを作りました。
でも、この選挙で、平和憲法を変えて
戦争のできる国にしようという動きがあります。
戦争は、まちを壊し、田畑を潰し、
人の心も破壊するだけで、何も生み出しません。
力で優位に立とうとせず、
意見の違いも、歩み寄りの努力で解決し、
緑と海の自然を大切にしていくこと、
今生きているわたしたちが
次の世代に残していくべき事だと思います。


どうぞ、戦争のできる国にはならないよう、
国の方向を決める選挙の一票を
お願いします。






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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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