日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。
栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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当時、上流階級や会社役員、兵士の制服は洋服ですが
一般の女の人や子どもの普段着は、
着物姿が普通で
洋服は「お出かけ着」といった感じでしょうか。
家族や女工さんたちと撮った写真にも、
たいていは縞や伝統的な模様の地味な感じの和服です。
洋服も既製品は少なかったのでしょう。
峯子は洋裁も習ったのか、
コートも自分で作ったりしています。
峯子は、勤務先の学校には、
洋装で行っていたようですが、
改まった場所や式典には和装で行くと、
皆に褒められ、ちょっと自慢気な様子を
栄への手紙に書いています。
子どもも、普段は着物で裸足か草履。
洋服に靴は、少し裕福な層か
お誕生日の記念写真に身につけるものだったのでしょうか。
お誕生日のプレセントに、
洋服を、という記述が時折見られます。
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「当時の社会」
一般の女の人や子どもの普段着は、
着物姿が普通で
洋服は「お出かけ着」といった感じでしょうか。
家族や女工さんたちと撮った写真にも、
たいていは縞や伝統的な模様の地味な感じの和服です。
洋服も既製品は少なかったのでしょう。
峯子は洋裁も習ったのか、
コートも自分で作ったりしています。
峯子は、勤務先の学校には、
洋装で行っていたようですが、
改まった場所や式典には和装で行くと、
皆に褒められ、ちょっと自慢気な様子を
栄への手紙に書いています。
子どもも、普段は着物で裸足か草履。
洋服に靴は、少し裕福な層か
お誕生日の記念写真に身につけるものだったのでしょうか。
お誕生日のプレセントに、
洋服を、という記述が時折見られます。
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「当時の社会」
太平洋戦争中の1945年1月13日、三河で大地震があり
多数の犠牲者が出ましたが、
戦争中のこととで、戦意を喪失することを恐れ
大きく報道されませんでした。
しかし、地震による断層は今でも残り
「深溝(ふこうづ)」という地名にも現れています。
ウィキペディア三河地震
昔からどこにでもあった地震ですが、
今のように耐震家屋のなかった時代ですので、
当時、かなりの被害が出たようです。
しかし、国民には、戦意を喪失するとの懸念で
報道は大きくされませんでした。
当時は、情報の開示は軍部に都合の悪い事はされていませんでした。
多数の犠牲者が出ましたが、
戦争中のこととで、戦意を喪失することを恐れ
大きく報道されませんでした。
しかし、地震による断層は今でも残り
「深溝(ふこうづ)」という地名にも現れています。
ウィキペディア三河地震
昔からどこにでもあった地震ですが、
今のように耐震家屋のなかった時代ですので、
当時、かなりの被害が出たようです。
しかし、国民には、戦意を喪失するとの懸念で
報道は大きくされませんでした。
当時は、情報の開示は軍部に都合の悪い事はされていませんでした。
戦争中に落とされた不発弾が、
70年も眠っていたんですねぇ。
浜松で不発弾の処理ですって。
静岡新聞記事より一部転載
~~~
2月17日に不発弾処理 浜松・遠州灘海岸
(2013/2/ 7 17:50)
浜松市は2月17日、中区南伊場町のJR東海浜松工場で見つかった
不発弾の処理作業を南区新橋町の遠州灘海岸で実施します。
17日の不発弾処理 3800世帯に避難指示 浜松
(2013年2月5日付静岡新聞朝刊)
浜松市は4日、同市中区南伊場町のJR東海浜松工場で
昨年10月に見つかった不発弾の対策本部会議を市役所で開き、
17日に行う不発弾の移送と爆破処理の工程や避難計画を明らかにした。
約3800世帯、1万人が避難指示の対象になる。
不発弾を移送しての爆破は同市内では14年ぶり。
信管が外せないことや発見場所が市街地であることを踏まえて処理方法を決めた。
~~~
戦争の後処理はまだ続いているのですね。
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「当時の社会」
70年も眠っていたんですねぇ。
浜松で不発弾の処理ですって。
静岡新聞記事より一部転載
~~~
2月17日に不発弾処理 浜松・遠州灘海岸
(2013/2/ 7 17:50)
浜松市は2月17日、中区南伊場町のJR東海浜松工場で見つかった
不発弾の処理作業を南区新橋町の遠州灘海岸で実施します。
17日の不発弾処理 3800世帯に避難指示 浜松
(2013年2月5日付静岡新聞朝刊)
浜松市は4日、同市中区南伊場町のJR東海浜松工場で
昨年10月に見つかった不発弾の対策本部会議を市役所で開き、
17日に行う不発弾の移送と爆破処理の工程や避難計画を明らかにした。
約3800世帯、1万人が避難指示の対象になる。
不発弾を移送しての爆破は同市内では14年ぶり。
信管が外せないことや発見場所が市街地であることを踏まえて処理方法を決めた。
~~~
戦争の後処理はまだ続いているのですね。
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「当時の社会」
今週末は、栄も峯子も楽しみにしていた三谷祭(みやまつり)。
祭り前は、毎晩のように祭囃子や踊りの音楽が聞こえてきて
なんだか気もそぞろで落ち着きません。
江戸時代から伝わると言う三谷祭、
町内ごとに装束も踊りも曲も違うので、
それぞれが我こそと誇りを持って競い合い、なかなか勇壮です。
三谷の山車は素晴らしく絢爛豪華ですが、
これが、海に入るので、(その時には金糸の刺繡部分は、外すらしい)
足回りなど普通の山車とは作りが違うのだそうです。
この山車が若宮神社から八剣神社まで練り、また帰ります。
峯子たちの時代も、300年の伝統を受け継いでいたのですが、
戦争で祭りの規模も縮小されたのでしょう。
お囃子など昼だけで夜は何も無いのでつまらない、
あなたが居ないので、祭りも昔ほど楽しみではございません
などと書かれてもいました。
峯子の町・三谷ウォーキングツアーでも、
重要ポイントとして、三谷祭りに関る神社は、ちゃんとチェックしておきました。
公式サイト「三谷祭」
祭り前は、毎晩のように祭囃子や踊りの音楽が聞こえてきて
なんだか気もそぞろで落ち着きません。
江戸時代から伝わると言う三谷祭、
町内ごとに装束も踊りも曲も違うので、
それぞれが我こそと誇りを持って競い合い、なかなか勇壮です。
三谷の山車は素晴らしく絢爛豪華ですが、
これが、海に入るので、(その時には金糸の刺繡部分は、外すらしい)
足回りなど普通の山車とは作りが違うのだそうです。
この山車が若宮神社から八剣神社まで練り、また帰ります。
峯子たちの時代も、300年の伝統を受け継いでいたのですが、
戦争で祭りの規模も縮小されたのでしょう。
お囃子など昼だけで夜は何も無いのでつまらない、
あなたが居ないので、祭りも昔ほど楽しみではございません
などと書かれてもいました。
峯子の町・三谷ウォーキングツアーでも、
重要ポイントとして、三谷祭りに関る神社は、ちゃんとチェックしておきました。
公式サイト「三谷祭」
7日の体育の日に書きましたが、
以前は10月10日だった体育の日。
選定された理由の一つに、
この日の快晴率が高いというのがあったらしいですが、
昭和12年は外れていたようですね。
栄の元に届いた赤紙を受け取った日は
あとあとまで峯子が嫌いという雨の日でした。
以前は10月10日だった体育の日。
選定された理由の一つに、
この日の快晴率が高いというのがあったらしいですが、
昭和12年は外れていたようですね。
栄の元に届いた赤紙を受け取った日は
あとあとまで峯子が嫌いという雨の日でした。
10月の第2月曜日が体育の日になる以前は、
1964年東京オリンピック開会式の行われた10月10日
(晴れ率が多いのだそうです)が国民の祝日としてスポーツの親しむ日として制定されていましたが、
2000年よりハッピーマンデー制度の適応で、
第2月曜が「体育の日」となっています。
最近は、秋はイベントが多いので
春に運動会を実施する学校も多くなっていますが、
昭和の時代は運動会と言えば「秋」でしたね。
峯子が渡満の準備でソワソワしている17年、
出発前に三谷祭りや勤め先の運動会などもあり、
それを済ませてから、渡満の準備をしていたようで、
気ぜわしい秋だったことでしょう。
===一部引用===
峯子 17年10月20日
三谷祭も昨日、好天候に恵まれて終りました。
所謂子鹿踊りを、今年こそは
一弘ちゃんも充分見物出来ました事と存じます。
二十二日はまた校内運動会でございます。
十月半ばのお約束でございましたのが、
また急に運動会だけはすましてくれと(校長が)おっしゃいますので、
二十一日二十二日と出校する筈でございます。
出発準備に本当に心忙しく存じますけれど、
校長先生のお言葉も今更お断り出来兼ねて、
つい出る事にしてしまいました。
======
出発は、割引証を書き換えずに
10月中に出たようです。
1964年東京オリンピック開会式の行われた10月10日
(晴れ率が多いのだそうです)が国民の祝日としてスポーツの親しむ日として制定されていましたが、
2000年よりハッピーマンデー制度の適応で、
第2月曜が「体育の日」となっています。
最近は、秋はイベントが多いので
春に運動会を実施する学校も多くなっていますが、
昭和の時代は運動会と言えば「秋」でしたね。
峯子が渡満の準備でソワソワしている17年、
出発前に三谷祭りや勤め先の運動会などもあり、
それを済ませてから、渡満の準備をしていたようで、
気ぜわしい秋だったことでしょう。
===一部引用===
峯子 17年10月20日
三谷祭も昨日、好天候に恵まれて終りました。
所謂子鹿踊りを、今年こそは
一弘ちゃんも充分見物出来ました事と存じます。
二十二日はまた校内運動会でございます。
十月半ばのお約束でございましたのが、
また急に運動会だけはすましてくれと(校長が)おっしゃいますので、
二十一日二十二日と出校する筈でございます。
出発準備に本当に心忙しく存じますけれど、
校長先生のお言葉も今更お断り出来兼ねて、
つい出る事にしてしまいました。
======
出発は、割引証を書き換えずに
10月中に出たようです。
すべての意識が、戦争に向かっている社会。
当時は、軍隊式に統制されていたとはいえ、
16年当時には
ささやかな市民の楽しみはあったようです。
でも、酒を飲む兄の事を峯子は愚痴をこぼしています。
======
峯子 16年4月27日
兄もこの頃は、益々酒好きになり、
日が暮れてから深夜まで家にいることは殆どございません。
こんなの典型的な非国民ね。
=====
まあ、冗談のような口ぶりですが、
少々のことは大目に見られていたのでしょう。
お酒については、
栄は帰ったら、
土曜の夜くらいは峯子のお酌で飲みたいと
温かい家庭での暮らしを描き希望を語っています。
当時は、軍隊式に統制されていたとはいえ、
16年当時には
ささやかな市民の楽しみはあったようです。
でも、酒を飲む兄の事を峯子は愚痴をこぼしています。
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峯子 16年4月27日
兄もこの頃は、益々酒好きになり、
日が暮れてから深夜まで家にいることは殆どございません。
こんなの典型的な非国民ね。
=====
まあ、冗談のような口ぶりですが、
少々のことは大目に見られていたのでしょう。
お酒については、
栄は帰ったら、
土曜の夜くらいは峯子のお酌で飲みたいと
温かい家庭での暮らしを描き希望を語っています。
太平洋戦争の終戦直前
徴兵され家族と離れて出兵せざるを得ない状況下、
兵を送りだす家族の心情は、複雑です。
国の為にという大義名分で
自分の不安や寂しさは
覆い隠して過ごしていた方が多かったでしょう。
「国の為」が最優先で、
異を唱えれば、「非国民」と蔑視される世の中だったのですから。
そんな時代でも、
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」に収録されたものを見ると、
峯子は、随分と率直です。
栄の手紙の中でも、
人間としてあたりまえな感情が
僅かですが吐露されている部分もあります。
手紙を通して
離れているからこそ、の
絆が生まれているようです。
このような絆は、
栄と峯子だけでなく
多くの若い兵士たちやその家族にも
見られたことと思います。
徴兵され家族と離れて出兵せざるを得ない状況下、
兵を送りだす家族の心情は、複雑です。
国の為にという大義名分で
自分の不安や寂しさは
覆い隠して過ごしていた方が多かったでしょう。
「国の為」が最優先で、
異を唱えれば、「非国民」と蔑視される世の中だったのですから。
そんな時代でも、
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」に収録されたものを見ると、
峯子は、随分と率直です。
栄の手紙の中でも、
人間としてあたりまえな感情が
僅かですが吐露されている部分もあります。
手紙を通して
離れているからこそ、の
絆が生まれているようです。
このような絆は、
栄と峯子だけでなく
多くの若い兵士たちやその家族にも
見られたことと思います。
節分には豆まきをしますね。
当時も、節分には、
年男が神社などで豆まきをしたようです。
===一部引用===
峯子 17年2月6日
寒も、もう明きました。
節分にはやはり豆をまきました。
「福は内 鬼は外」と、
年男の呼ぶ声が道を通りながら聞えて来ます。
=====
本来、節分とは季節の変わり目である
「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいいますが、
春を迎えるということは新年を迎えるにも等しいぐらい
大切な節目だったため、
室町時代あたりから節分といえば
立春の前日だけをさすようになりました。
また、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられており、
新しい年を迎える前に邪気を払って福を呼び込むために、
宮中行事として追儺(ついな)という行事が行われるようになり
(俗に鬼やらいや厄払いとも呼ばれます)、
その行事のひとつ
豆打ちの名残りが 豆まきというわけです。
当時も、節分には、
年男が神社などで豆まきをしたようです。
===一部引用===
峯子 17年2月6日
寒も、もう明きました。
節分にはやはり豆をまきました。
「福は内 鬼は外」と、
年男の呼ぶ声が道を通りながら聞えて来ます。
=====
本来、節分とは季節の変わり目である
「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいいますが、
春を迎えるということは新年を迎えるにも等しいぐらい
大切な節目だったため、
室町時代あたりから節分といえば
立春の前日だけをさすようになりました。
また、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられており、
新しい年を迎える前に邪気を払って福を呼び込むために、
宮中行事として追儺(ついな)という行事が行われるようになり
(俗に鬼やらいや厄払いとも呼ばれます)、
その行事のひとつ
豆打ちの名残りが 豆まきというわけです。
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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。
「大場書簡を読み解く会」
senkanoloveletter@live.jp
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「大場書簡を読み解く会」
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