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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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昨日記事に書いた15年1月8日付けの峯子の手紙に、
米について記述された部分がありました。

===一部引用===
峯子 15年1月8日

一昨日発動機をお頼みして籾を曳いて頂きました。
今年は日照り続きで、
全収穫が昨年に比して十俵程少うございました。
それでも米の値上りで、金額に於ては大差ないそうでございます。
四十余俵を二時間で仕上げてしまいましたので、
本当に疲れて今日もまだ体の節々が痛みます。


======

2割方、米が値上りしたようですね。
国は、目減りを防ぎ脚気予防のため、白米禁止令も出します。
これ以降、どんどん食糧・物資不足になり
主な食料も、配給制度になります。









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七草粥、食べられましたか?
1月7日の朝に食べる日本の行事食(料理)です。
春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、
その一年の無病息災を願って食べられます。
祝膳や祝酒で弱った胃を休める為とも言われるようです。
セリ、ナズナ、ゴ(オ)ギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ
これぞ七種

今では、スーパーでセットされて売ってますが、
当時は野にでて摘んだでしょうか?










17年正月2日の峯子の手紙です。
===一部引用===

餅米の配給を受け、
家内中で美味しいお雑煮を祝い、
九時全国奉祝の時間に宮城遥拝をなし、
日本国民として生を受けた事の幸せを
沁みじみと感謝いたしました。


====

餅米の配給があったのですね。
13年ごろから、物資の不足の為綿糸をはじめ
15年には砂糖とマッチ、綿糸配給統制で
その後、主食である米穀・小麦粉、みそ・しょうゆなど
基本食料が配給制度になります。
(参考:配給制度

お雑煮は召しあがられましたでしょうか?











峯子の15年末の手紙に、
鶏小屋の火事の話が書いてあります。
この時は、風もなく、
峯子もかいがいしく水を運んで消し止めたとあります。
他にも対焼夷弾防火訓練が役立った町内の火事や、
うどん屋やの火事の話なども出てきます。
この時の水が、
父の町長時代の功績の水道栓が役に立ったと
ちょっと自慢話(?)

水道って、今の時代は当たり前にありますが、
それまでは
井戸水だったんですね。











栄の竹馬の友が、
大きな戦いで名誉ある戦死

===一部引用===
峯子 15年1月8日

小島様の御英霊が、旧年二十六日に
豊橋まで無言の御凱旋なさいまして、
お寺にご安置してございます由。

====

栄は、その闘いぶりを讃えて新聞に投稿もしています。
町に大きな貢献のあった人の葬儀は、
町葬として執り行われます。

栄の竹馬の友の葬儀(15年1月27日)には、
町の中心部にある蒲郡南部小学校まで
中村から多くの方が歩いて参列したと、
峯子の手紙にあります。
きっと野辺送りのような天蓋もみられたでしょう。


「戦死」とされた栄も、町葬もありましたが、
それとは別に自宅葬は20年10月16日にとり行われました。
峯子の本当の最後の手紙で分かった事です。

このカテゴリーの記事を読む
当時の社会







昭和16年12月8日に、海軍の真珠湾攻撃
太平洋戦争は始りますが、
大陸にいる栄達、
峯子たち日本の国民はどういう思いでいたのでしょうか。

===一部引用===
峯子 16年12月15日

今朝は、寒い時雨が降っています。
冬の訪れを物語っている様な、侘しい日でございます。
十二月八日、畏くも宣戦の大詔渙発され、
国民は一致団結必勝の意気に炎えています。


=====







太平洋戦争の始まった16年12月、
峯子の職場三谷小学校は、学期末の行事で多忙を極めています。

===一部引用===
峯子 16年12月

展覧会及び学期末で、
峯子は目の廻る様な思いでございます。
今年は、工作が課され、裁縫を出張していますので、
図画書方も放っては置けず、
本当にもう一週間ばかり
やるせない思いで過日いたす事と存じます。


======

展覧会には、
工作、裁縫、図画、書道の作品が並んだようですね。





今でも地域の自治組織はありますが、
当時は、結びつきは深く、
いろいろな活動をしていたみたいですね。
お手紙に時折出てくるのですが、「女青」というのは、
妹が加盟していた「女子青年団」のことでしょう。
戦地の栄宛に慰問品や雑誌や週刊誌を送ったり、
懇親会でしょうか新年会でしょうか、
出し物で芝居や踊りを踊ったりしたようです。
写真は、当時の絵葉書になっていましたが
「三谷町女子青年團」の文字が見えます。






先だって「二宮尊徳」像に関しての記事を書きましたが、
蒲郡市内にもまだ残っている学校がありました。
それも大場家の近くの小学校です。

勤勉の象徴とされる二宮尊徳さんですが、
農民から努力して民衆の為に働き、
認められて帯刀武士に出世したという方なので、
幼少の頃は「金次郎」だったはずですが、
「二宮尊徳先生之像」と記されています。
像の形には時代の変遷や地域により
バリエーションがいくつもあるんだそうですが、
左足前のもんぺに芝を担ぐ石像は、
愛知県の基本的な形ですね。
ちょっと建立時期は確認できませんでしたけど
昭和7年以降かと思われます。
また、近くに行ける機会がありましたら
確認してきたいと思います。

研究している方のサイトを見ると
いろいろな事が分かって結構面白かったです。
参考 まとめサイト











峯子は、妹の影響か、
手作りで子どもの服など作っています。
現在では既成品が豊富ですので
家庭で服を作るのは趣味の方ぐらいですが、
当時は、材料も不足の上、注文服は高価なので、
家でミシンを踏んでいたようです。
普段は着物を着ていた当時、
洋裁のできる女性は、
そんなに多くなかったかもしれませんね。
姪っ子さんにコートも作ってもいますが、
峯子はおしゃれでしたから、
子どもにもいい服を着せたいと
思っていたことでしょう。

本日11月29日は、
いいふくの日だそうです。



 









栄は、とても心遣いのできる男性だったと思います。
13年の5~6月でしょうか、
一弘と峯子に送金しています。

======
栄 13年

過日、君宛に十円送金いたしました。少ないですが、
内五円は一弘の誕生のプレゼントです。
大分遅くなりましたが、せめて誕生祝い、父からの贈物です。
何なりと一弘の為に有効に使用して下さい。
残りの五円は峯子に送ります。
六月九日の記念として愛妻に送ります。


====

13年当時は、軍の俸給を本人が受け取っていたのでしょうが、
戦地でも現金が使いようのない場所だったり
家族に仕送りする兵士が利用する
野戦郵便局の開設が難しい
というような理由があったのでしょうか、
俸給は15年12月から留守宅の受け取りとなります。
この時、受取人を栄の父にするか
峯子にするかでやりとりがありますが、
結局三谷の峯子にしています。

文中の、6月9日記念日についてはこちら
その理由










新婚時代の五号
海につながる河口近くに居たせいか、
海苔で生計を立てる住民が身近にいたようで、
栄は
時折、慰問袋で海苔を貰ったとも書いています。
また、寒くなる折、
子どもの健康も気遣っています。

===一部引用===
栄 年不明

すでに今日は十一月二十七日、
間も無く師走に入る。
寒さいよいよ加わると思う。
新聞紙上で見ると、海苔が豊作と予想されるとの事。
こんな事は必ず寒気が予想さるべきであるから、
一弘君の健康に御注意相成りたく。


====






今日は、勤労感謝の日ですが、
昔は宮中の儀式で新嘗祭(にいなめさい)の日でした。
もっとも、宮中のみならず、
一般民衆の間でも新しい穀物を神に供え
それを食べて収穫を祝う習慣がありました。
「風土記」や「万葉集」にもその様子が描かれており
昔から伝わる自然の恵みに感謝する行事として
各地でも行われていたようです。

【新嘗祭】
古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を
天照大神をはじめとする天地の神に供え
農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式でした。
律令制度のもと11月の2番目の卯の日に新嘗祭を行うことになっており、
天皇が即位した最初の新嘗祭を大嘗祭と呼び
天皇の即位を天下に知らしめる大きな祭典となっています。
新嘗祭がいつ頃から行われていたかははっきりとしないのですが、
日本書紀で皇極天皇元年(642)11月16日に
新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初です。
この日の干支は丁卯にあたり、
すでにこの時代に11月の2番目の卯の日が
新嘗祭と確立していたようです。
明治以降、新嘗祭は11月23日に定められ国民の祝日となります。
そして昭和23年より勤労感謝の日と名を変え
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日として
国民にすっかり定着した祝日となっています。

参考ページ








11月22日は、いい夫婦の日?
栄さんと峯子さんはとても良い夫婦ですね~。
もうひとつ、11月22日は、数字も揃っていますので、
日本釦協会・全国ボタン工業連合会等が1987(昭和62)年に制定した
ボタンの日でもあるそうです。
1870(明治3)年のこの日、
金地に桜と錨の模様の国産のボタンが海軍の制服に採用された。
ということだそうなのですが、
なんとなく、数字がボタン穴やホックに見えてきましたwww

お手紙の中で、ボタンに関連して思い出すのは、
峯子が栄に編んだセーターのデザインです。
16年の春の峯子の手紙に
かぶるかたちがいいか、前開きでボタンをつけるか
打診しています。
本編ではコラムにも書きましたが、
やっと出来上がったセーターの慰問袋が
なかなか届かずにやきもきするやり取りが
何度もお手紙に書かれていました。
やっと栄の元にセーターが届くのは、
年を越して17年の1月になりました。

郵便事情やら、
隊の変転やら、
峯子の編んだセーターにまつわるエピソードは、
この当時でないと体感できないかもしれません。









豊川市(旧宝飯郡)にある本宮山は、
登山初心者にも信仰の山としても
地元ではポピュラーです。
山道途中からは富士山も垣間見え、
山頂近くには三河国一之宮の砥鹿神社奥宮があり
標高は、789.2m。
本宮山の紹介
昭和12年秋、峯子も子どもをおぶって登っています

===一部引用===
峯子 昭和12年11月24日

先日皆で、本宮山へ武運長久祈願に詣りました。
牧山のご両親様と三谷のおばあちゃんと
豊橋のお姉様と私と一弘、秀友様。
一弘を負んでの山道には本当に疲れました。


====


きっと3時間くらいはかかったことでしょう。
峯子や、信仰の厚い栄の父は
武運長久の祈願にあちこち行っています。















====
栄と峯子の手紙の頃、昭和10年代の蒲郡の町を
現代でも思い描けるようなお店があります。
ひとつは、お手紙にも出てくる
清田庵という麺類のお店屋さん。
(建て直してはいますが、)
大正年間に操業というだけあるノスタルジックな建物で、
店内に、昭和12年ごろの町の地図が掲示してあります。
その当時の商店とバスの時間表が書いてあります。
ひとつは、中央通りにある丼物(?)食堂のみつわ屋さん。
こちらも創業70年以上という古いお店で、
昭和10~12年の商店街のお店の地図を
平成になって聞き書きしたという手書きのマップが貼ってあります。

他にも今は営業していないが、
古い看板のお店があったり、
もう少なくなりましたが、
昔はおきやさんだった(?)らしい建物の名残のある
蒲郡駅前近くの商店街です。





昭和15年は皇紀2600年の記念の年ということで
式典が行われたり、
記念事業が盛んです。

===一部引用===
峯子 15年11月10日

今日十一月十日は、
紀元二千六百年奉祝記念式が宮城前の大広場で行われます。
三谷の父もそれに参列すべく、昨夜上京いたしました。
三谷町としましても、
記念式奉祝旗行列を町民も共に行いました。


====

宮城前って、宮城県ではなくて
上京と言っていますから、
今の皇居前広場のことみたいですね。










峯子16年11月2日の手紙の冒頭
菊の話題の次に、
===一部引用===
峯子
今日は第一日曜日、
明日は明治節の佳き日でございます。
明日午后より幼稚園の運動会がございます由。


=====

明治節って、明治天皇誕生日なんですね。
近年歴代天皇の誕生日は、
大正天皇を除いて、ほぼ
国民の休日になっていますね。

運動会って、11月に開催していたんですか。
涼しすぎるかしらと思いますが
この頃は、旧暦だったかなぁ?
17年の夏に、新暦でお盆を・・・ということが
書かれていましたから。






===一部引用===
峯子 16年11月

昨日学校より、西住車長伝と云う松竹映画を見に行きました。
西住小次郎という熊本出身の中尉の奮戦記録の様な映画です。
(原作の)菊池寛氏は今、次事変の於ける軍神だと推賞されています。


=====

しかし、軍功なら他の人の方が・・・と峯子は酷評です。
映画好きの峯子ですが、
何でも好きというのではなかったようです。
近くに映画館もありましたが、
戦意高揚というのでしょうか、
当時は軍事色の強いものばかりが上映されていたのでしょう。







10月26日はサーカスの日だそうです。
サーカスの日 というのは、
1871年(明治4年)東京・九段の招魂社で、
フランス人のスリエが日本で初めて
洋風のサーカスの興行を行ったことによるもの。
当時の雑誌によれば、ピエロなども登場したようですが、
人気はあまりなかったとか。

お手紙には、16年の秋、
豊橋で講行中のサーカスに、
兄の子と一緒に長男を連れて行ったことも出てきます。
猛獣使い、滝の白糸、空中サーカス、
青竹渡り、針金渡り、オームの曲芸などがあったとか。
駅前の仮小屋が、はち切れそうに賑わい
子どもも喜んで見ていたようです。





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2011年2月に出版。
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