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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
栄は、釣りが好きで、
秋のハゼ釣りの事を
戦地の空を見て故郷の秋を思い出しています。

===一部引用===
栄 秋

そろそろハゼ釣りの好期、
釣りざおをかついで
豊川の流れを漂流した昔が思い出される。
夕陽を斜に受けながらする
太公望たまらなく懐かしい。
夕食の美味だったのを忘れられない。
最近腹がヘって困る。


======

釣りの思い出も
五号竹島での事など
何度か書かれています。
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昨日は秋文の日で祝日したね。
ウィキペディアによると、
皇霊祭(こうれいさい)、
すなわち春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)・秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)は、
明治11年(1878年)にそれまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を
春と秋に纏め奉祀したものである。
現在は「国民の祝日に関する法律」により
それぞれ春分の日・秋分の日となっている。

もともとこの日に最も近い戊の日は、
社日として氏子が氏神たる神社に参詣し、
春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する習わしがあった。
古代中国では祖廟を祀る日であった。

ということで、実りの秋を祝う秋季節皇霊祭は、
峯子のお手紙にも何度か記述され、
支度で忙しい様子が描かれています。
====
峯子  9月
暑い寒いも彼岸までとか、諺にも申しますが、
本当に暮らしよくなりました。
秋季皇霊祭でございます。
光昌寺では、今おつとめの最中でございます。
昨日は日曜日、今日は祭日の日直でございます。
時計の音ばかりが静かに響いています。


====


このカテゴリーの記事を読む
当時の社会
17年、峯子が満洲行きを決め一歩を踏み出す秋、
(まだ婚家に話していないようですが)
峯子はただ嬉しくそわそわしています。

===一部引用===
峯子 17年9月11日

まだそんなに急にお会い出来ない事でしょうと
思いつめていましたのに、十一月と伺い、
何から支度いたしましょうかしらと、
昨日今日は唯嬉しさにお仕事も手に付き兼ねて
一人でそわそわいたしています。


====

同じ手紙に、
平野家一族が集まった様子も書かれています。
その頃、父母は、弟の入営で
気持ちがいっぱいだったでしょうから
峯子は、自分の満洲行きを告げられず、
気を許した妹に最初に打ち明けたようです。

【注】
この手紙では出発は
17年9月22日
弟の益夫のお祝いで、家族が集まり、
記念撮影しています。

==一部引用===
峯子  17年9月23日

益夫さんの首途を祝しての記念でございますが、
峯子達にもまた
意義深い思い出になります筈と嬉しく存じます。


====

その時撮ったのが、
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」の巻頭写真にある
平野家一同の写真だと思われます。
勲章をつけた父、中心に弟益夫
嫁に行った妹たちも揃って写っています。
まもなく入営というあわただしい中、
家族での記念撮影です。
その時の賑やかな様子を峯子の手紙では

===一部引用===
峯子 17年9月20日

香根子達も、一昨日から参っておりますので、
共に喜んでくれました。
文子と令子、孫が皆集まりましたので、
賑やかい事ったら、
食事の時等余りあっちやらこっちやらで
色々と話しかけられて、
ご飯を何杯頂いたのか忘れてしまいそうに騒がしゅうございます。


====

このとき、香根子たちが喜んでくれたというのは、
峯子が栄の元に行くとの決心
打ち明けたことだったのでしょう。
栄もその準備を進めています

豊川のハートフルホールでの展示会にも
通路にこの写真を掲示しておりましたが、
見ていただけたでしょうか?
豊川市御津ハートフルホールにて
去る19日に上演されました東三河演劇祭
こと語り 戦争の記憶~大場栄と峯子の戦火のラブレターより~」
朗読劇に取り上げられました部分の一部ですが
ブログ内関連記事をリンクしておきます。

大島の海水浴の思い出
沖の白帆を数えた紀元節の蒲郡海岸
手紙が来なくて苛立つ栄
写真の催促
・物資の不足する中、セーターを編む峯子
・学校へ勤めに行く服装和装の峯子
猛烈な戦闘で痩せこけ目ばかりギョロギョロ
・家族からの手紙や写真で元気づけられる
一弘への手紙
気配りの栄
・お側で看病したい
手紙の保管

いずれも、戦争中でありながらも、
愛する二人の想い、子どもへの愛情
そこここに感じられる部分ばかりですね。
しかし、まだまだエピソードは書き切れず、
本編をお読みいただければと思います。

パネル展示豊川は、今月25日までです。
どなたもお見逃しなく。
日東三河演劇祭・こと語り「戦争の記憶」~大場栄と峯子の戦火のラブレターより~
箏と語りのイベントで、ハートフルホールに行ってきました。
15日から同会館でパネル展示もしているので、

公演は午後からだったのですが、
朝から会場入り。
でも、、まあ午前中は、朗読劇スタッフの方とかくらいで
あんまり入場者はなく、ヒマ~(-。-).。o○


でも、公演の前後には、
結構パネルもしっかり見入る若い方も多くみかけました。

朗読劇会場入口でも、物販コーナーいただきましたが
もう既に本を持っていらっしゃる方が多かったような…


朗読劇には「大場栄都峯子の戦火のラブレター」より
抜粋して取り上げて朗読していただきました。
取り上げられなかった部分は、まだまだいっぱい。
このブログやパネル展でも御紹介しています。
ハートフルホールでのパネル展は、
今月25日まで開催中(入場無料)ですので
どうぞお出かけください。
まだ、「読み解く会ニュース12号」も
残っているだけご自由にどうぞ。
イベント告知です。

東三河演劇祭2011の一環で「こと語り戦争の記憶
19日午後3時より
豊川市 御津ハートフルホールにて

本日上演です。
15日よりパネル展も同時開催(~25日まで)
こちらは無料になっていますので、どうぞ合わせてご覧ください。
パネル展のみという方も熱烈歓迎w

本日御来場の方は、
「大場書簡を読み解く会」ニュースも手に入れられるかも?
パネル展豊橋参加者の感想(1)続き
パネル展豊橋にいらした方は、
こんな感想を書いてくださいました。

~~~~
蒲郡へ来てまもなく40年にまりますが、
大場栄大尉の子とは、全く知りませんでした。
蒲郡の展示会で初めて知り、びっくりし心打たれました。
豊橋で映画を見て、再び心打たれました。
息子さんの話も聞き、
三度心打たれました。
御夫妻に連なる、多くの皆様がみえて
亡き御夫妻もお喜びにと思います。
     70代 男性

今年の2月にTV番組を見て、
初めて大場栄。峯子夫妻の事を知りました。
祖父母から何も戦争の話を聞いたことがなく
学校では日本軍は悪だと
一方的な情報しか教えてもらえなかったため
大場大尉の人間的な温かさに
大変心を打たれました。
今まで恐いを避けてきた戦争について
もっと知りたいと思いました。
   20~30代 男性

~~~~~~
7月に実施しましたパネル展豊橋
参加者の感想を一部紹介します。


~~~~~
手紙のやり取りの中でも
のろけやけんかなど、
普通の夫婦生活も見られ
面白いなと感じました。
    31歳 男性

大場栄さんを想う気持ち
自分に置き換えてみて
日常生活を大事にしたいと思います。
    50代 女性

どこかで見たことがあると思ったら、
小学校の時の先生だった。
ものすごく、なつかしくて、なつかしくて
涙が出た。
実家がそれほど離れていなかったし、
なんだか親戚に会えたような感じがして
うれしかったです。
    84歳 女性


~~~~~~
このブログを書くようになって
まだ一年とちょっとなんですね。
ちなみに、昨年の9月は
4記事しか書いてない・・・・(><)
出版についての新聞報道などあって、
映画「太平洋の奇跡」のCMも見られるようになった頃だったでしょうか?
出版に向けて、膨大な仕事をこなしていましたから
まだ、ブログを書こうという余裕はなかったんでしたっけ。

ブログも始めてすぐは、
なかなか存在すら知られず
検索ワードも
「戦火のラブレター」より
「太平洋の奇跡」とか「竹野内豊」が多く
ウィキにも「大場栄」の項目すら無かったのですから・・・・・
アクセス数も、今は毎日見てくださる方で
落ち着いているようですが、
映画のテレビCMや番組で報道の後は増減が激しい時も
ありました・・・
1年でずいぶんの変化ですね。
    シミジミ
「大場栄と峯子の戦火のラブレター豊川展」ですが、
JR東海道本線愛知御津駅から徒歩10分ほどの
御津ハートフルホールの展示室にて開催中です。
部屋は小さいですが、パネル数約60枚ほどと
かなり凝縮しております。
入場は無料です。
読み解く会ニュースのバックナンバーも置いておきましたので
手にとってご覧いただけると
この1年の活動がよくお分かりいただけると思います。
どうぞごゆっくり時間をとってお出かけください。

入り口に栄と峯子の写真でお出迎え
展示室内。


御津南の思い出
は、
なんといっても御津南のおでんですね。
このブログのツールのひとつである
トラックバックという他のブログとの連携する手段が
今月いっぱいで廃止されるようです。
世の中は、ブログよりSNSという流れでしょうかね・・・・。

とりあえず、mixiにも
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」コミュがありますので、
お知らせしておきます。
もしmixiな方がおいでになりましたら
ご覧くださいませ。
まあ、ブログのほうが、
密度が濃いですけれども。
以前にもご案内しましたが、パネル展示
大場栄と峯子の戦火のラブレター
おかげ様で、各地で開催してきましたが、
明日より10日間の豊川展示は、
御津ハートフルホールにて開催。
9月15日~25日
午前9時~午後5時

入場無料ですので、
是非お出かけください。


19日には、「大場栄と峯子の戦火のラブレター」朗読劇が上演されます。(有料)
天白神社の祭礼は、毎年4月第二日曜日に行われています。
しかし、以前は旧暦八月十五日行われて、
当時は天白神社祭礼がすむと
一斉に八劔宮の祭礼の支度にかかっていましたが、
昭和四十年から現在の4月第二日曜日に執り行われるようになりました。
御神楽を二人で見た思い出は、
峯子と栄の手紙にも思い出深く語られています。
満洲へは、門司から海路で朝鮮半島へ、
釜山から満州鉄道で海城につきます。
大連周りもあるようですが、
峯子と一弘は、
栄の用意した割引証
10月の内に出発しています。
割引証の日付が違うと、
もう一度満洲の事務所で発行手続きをしなくてはならないので
11月に出発するようなら、どうしたらよいだの
渡満の準備について
いろいろ指示しています。

===一部引用===
栄 17年秋

峯子達の招致は色々都合もある事と存じますが、
先ず十一月頃と予定し願いを出しておきました。
(中略)許可あり次第、
家族証明書、運賃割引証その他、必要書類を送ります。
朝鮮の釜山経由にしておきました。
割引証も釜山からこちらまでの満鉄の割引証です。
大連廻りもありますが朝鮮の方が良い様
です。
荷物はチッキにする事が楽な様です。

====

栄は満洲の様子が分かるよう、
住まうことになる家族官舎の間取り
長男が通うことになる学校の事も
書き記して送っています。
この経路は一般的だったようで、
峯子17年秋の手紙に
豊橋の教導学校(下に注)の生徒が、三谷に演習と書かれています。
生徒たちは、形原から豊橋までもちろん歩くのです。
25km?くらいありますよね?

===一部引用===
峯子 17年9月11日

今朝、豊橋教導学校生徒千五百名、三谷へ演習に来られました。
昨夜形原に宿泊されて、今晩学校へ帰られるのだそうです。
残敵を掃蕩しつつの行軍とか。荷物の重みと歩行軍の疲れとで、
軍服も汗グッショリ。頬を流れる玉の汗をぬぐいもせず・・・
本当に兵隊さんは偉いと思いました。
丁度家の前で十五分間休憩でしたので、
砂糖水、氷砂糖、お煎餅等有り合わせの茶菓を差上げましたら、
大変喜んでいらっしゃいました。
戦地にお出での皆様のご労苦の程を思いやり、
本当に尊く感じました。


====

峯子は、戦場ではこれとは比べ物にならないと
遠く戦地の兵隊を想っています。


【教導学校】
1927年(昭和2年)7月1日
「陸軍教導学校令」(昭和2年勅令第212号)が制定され、
歩兵科の下士官候補者を養成する教育総監管下の陸軍教導学校が、
仙台、豊橋、熊本に設置されています。
官候補者の教育を実施した。
1938年(昭和13年)3月
「陸軍予備士官学校令」(昭和13年勅令第139号)が制定され、
豊橋校に予備士官学校が併設されました。
1939年(昭和14年)8月、
豊橋校での騎兵・砲兵科の下士官候補者の教育は廃止。
その後、全面的に予備士官学校に転換が図られ、
教導学校は1943年(昭和18年3月29日勅令第221号により
同年8月2日に廃止されています。
大場書簡を読み解く会では、
会員内外に活動を紹介するニュースを発行しています。
不定期の発行なのですが、
2010年の夏7月から第1号を発行して以来
毎月のように発行していまして、
今年7月に12号を出しています。
以前、バックナンバーを差し上げた方から
13号はまだか?と言われて
そういえば、8月は飛んでしまったなぁ・・・
と反省。
今月、豊川のパネル展示がありますので、
それを見に行って
記事にしましょうと予定しております。
手紙の文頭には、季節感を盛り込んで書き出すのですが、
峯子は、5~7日ごとのお手紙にも
それぞれいろんな表現をしています。

たとえば、秋ごろのお手紙をいくつか

===一部引用===
15年9月

窓から流れ込む秋の夜風に、
笛の音が解け入って静かに胸に響き、
乙女の日の思い出をかなで、
泉の如く懐古の情を湧き立たせてくれます。



16年9月

二百十日も事無く過ぎ去り、快晴の日のみ続きます。



17年9月

昨日の雨で今朝はめっきり秋影色になり、
稲も一面に穂を出し始めました。


===

とかいった具合です。

忘れがちな日本の四季の美しさを
思い出すようなお手紙ですね。




参考:ウィキペディアより抜粋

1951年9月8日は、サンフランシスコ平和条のむすばれた日です。
第二次世界大戦における
アメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の
戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。

本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名され
サンフランシスコ条約・サンフランシスコ講和条約
・対日平和条約・対日講和条約などともいう。

条約によって正式に、連合国は
日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条(b))。
なお、第1条(a)にあるように国際法上ではこの条約の発効により、
正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされ、
ポツダム宣言の受諾を表明した1945年8月14日や
国民向けラジオ放送を実施した8月15日
降伏文書に署名した1945年9月2日以降にも
戦争状態は継続していたものとして扱われている。

~~~

ソウナンダー 


栄は17年の秋から満洲国海城に配属されます。
家族官舎に峯子を呼び寄せますが、
長男一弘の入学を心配する峯子に宛てて
満洲の学校のことを書き送っています。
===一部引用===
栄 17年9月初めころ

さて、こちらに来ました。
毎日多忙にまぎれ、便りするのが遅くなって申し訳なし。
ここは一小都市ですが、日本人も相当多く
小学校も田舎の学校より相当立派なのがあります。
幼稚園もありますが、目下保母なき為閉園していますが、
職員さえあれば開かれるそうです。
小学校は生徒は牧山の学校の半数より少し多い程度ですが、
複式でなく設備も相当立派で職員も目下九名だそうです。
一弘の教育には何等さしつかえないものと思います。
ただ、官舎から一粋位あります。
日本人街の中央です。


====

これを見て、峯子の心配は軽減されたでしょう。
でも、その他に心配の種は多く、
9月から旅立つまでの約2カ月は、
あれこれソワソワしながらも
渡満の準備に追われます。
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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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