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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
およそ栄の手紙は文面は簡潔です。
(長文を書いている場合は、
何度も負った戦傷で入院中か、
兵隊の教導(指導)で本部にいる時代です。)
ほとんど日付も書いてない場合が多いので、
所属の隊名や位がヒントになって
年号別に類推することができます。

15年ごろの栄の手紙
====

進発以来○○は、目下敵陣深く○○を目前に控えている。
こんな奥地で便りが書けるのが不思議だ。
毎日暑さと南京虫とノミに悩まされているが、
御蔭で元気。
酷暑の折柄、御自重 御奮闘を祈る

        於○○   栄


中支派遣山脇部隊
   本部 サ
            大場中尉


=====

文面に伏せ字があっては、
どこにいるのか分かりません。
作戦など漏れないよう軍事機密というのは分かりますが・・
峯子の手紙は、子どもの成長とか
地域の話題とか、
親戚筋の話とか話題が豊富で
結構年代が推定される事も多かったのですが・・・・
栄の手紙には、こちらが悩まされましたよ。


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作業の裏話
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峯子は、三谷小学校に勤めていた昭和15年~17年くらいでしたか
よく日直しながらお手紙を書いています。
学校が休みの日は、
しばしば日直当番が回ってきているようです。
夕方になって、交代する人が来ないとか
書かれていて、夜はまた別の宿直があったのでしょう。
昼間の静かな教室で、
隣のお寺の読経を聞きながら、
窓から海など眺めながら
新婚時代の思い出など言い及び
「神聖な教室で惚気(のろけ)を言ってはいかん」
と栄にたしなめられたりしていました(^0^)

家にいては家事や育児で
ゆっくり手紙を書く時間がとれなかったでしょうから、
日直という時間は、
峯子にとって貴重なお手紙タイムだったと思います。


三谷小学校に勤めていた峯子は、
夏の水泳の練習が始まると、
気が重いトボヤいています。
日焼けしてしまうのを気にしています。

===一部引用===
峯子 15年7月

大嫌いな水泳練習が始まりまして、
今日は四日目でございます。
肩や腕が日焼けの為にピリピリと傷みます。
気を付けておりますけれど、
顔も大分、日焼けいたしました。
今帰っていらっしゃれば嫌われてしまいそうで、
心配でたまりませんけれど・・・・・・
いずれ染った物は、また、はげる事と
職務に忠実に勤めております。


====

今帰っていらっしゃれば・・というのは、
栄が色白好みということだったからでしょう。
日に焼ける夏が嫌いとよく書いていました。

三谷小学校は、海が直ぐ近くでしたので、
水泳の訓練は、海で授業だったのでしょうか?
プールっていつごろできたのかなぁ?
本には掲載されなかった話です。
知り合いの夫婦で、仲睦まじく農作業をしていたのを
羨ましく見ていた峯子ですが、
5年経って、三角関係から破局に至った二人の事を
「夫婦の縁なんてそんなに頼りないものかしら?」
と言っています。

===一部引用===
峯子 15年夏

五ヵ年有余を、
唯その人の為にのみ働いて苦労して・・・・
踏みにじられるなんて、
男性の横暴さを、
いいえ非常時の男性にはもう外に
こんな人は無いと信じます。


=====

男性の横暴さに憤慨している峯子です。
時には、栄からのお叱りを受けて
悲しい思いもする峯子ですが、
こうしたことをはっきり口に出せる女性
当時、珍しかったのではないかとも思います。
先日、「大場栄と峯子の戦火のラブレター豊橋展」の
開催を(7月22日~24日まで・カリオンビル)お知らせいたしましたが、
新聞にもイベント情報に掲載していただくよう
あちこち回ってきました。
そのうち、東三河版に載る予定です。
お知り合いと御一緒にお出かけくださいね。
栄が、一時帰国をした16年の夏。
あっというまの一カ月だったと思いますが、
3年9か月ぶりの再会、
栄は、不在の間に成長した息子のこと
周囲の様子など、
浦島太郎さん状態だったのではないでしょうか。
栄もその後のお手紙で、
「ハトが豆鉄砲をくらった」ようだったと書いています。
しかし、ホッとできたのでしょう。
その夏の1カ月で、栄は太ったようです。
戦地に戻ってからの手紙に、
挨拶のたびに肥えたと言われると書いています。

===一部引用===
栄 16年9月

最も体質は「内地に帰って馬鹿に肥えて来た」と
皆の御挨拶□は、途中にて肥えたるものかと存じる。
気持ちの体質に及ぼす影響の影からざるに、
今更も驚き申す。
この言葉理解出来得るや


====

注 □は判読不明文字

1937年(昭和12)7月7日、七夕は、
支那事変の始まった記念日です。
(支那事変というのは戦前の呼び方で、
今では日中戦争と言うのが普通ですが)
そして、後の1944年(昭和19)栄の戦ったサイパンでは
日本軍総攻撃玉砕の日でもあった訳ですが。

峯子にとっては、昭和16年7月7日
栄の一時帰国を名古屋まで出迎え
大きな記念日になっています。
1年後の峯子の手紙に、
その時の事を思い出しての記述があります。
また、七夕の笹飾りも作ったのでしょう、
長男も短冊を書いています。

====
峯子 17年7月7日

一弘ちゃんも、(中略)
一人で短冊を書きました。
天の川と拙いながらどうにか筆で書いてありますが、
終わりまでは書き終せず、
少し母に手伝って頂いたそうでございます。
「僕の書いた天の字は
袴を履いた様になってしまった」
と、言って笑っていましたが、
みな どうにか読まれます。


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思い出の場所など
初めての方には、
このブログの読み方
栄は、子煩悩
時折長男一弘君宛ての手紙を
カタカナで書いています。

年月日が書いてないので分かりませんが、
14年ごろと思われる栄の手紙です。

===一部引用===
栄 

オトウチャンヨリ

一弘君へ
キシャガ タイヘン ジョウズ ニ カケテイマシタ。
ゴホウビ ニ ヒコーキ ヲ アゲマス。
オトウサンノ カイタ 
キシャ ポッポ ヲ イレテオキマス。
オトウチャン ハ ヤット キシャ ヲ ミマセンノデ
 ワスレマシタガ
 一ツ ノ クルマニ 「ワ」ガ イクツ アリマスカ。
マドガ イクツアリマスカ、
オシエテクダサイ。


====

【注】
1、 「ヒコーキ」をあげるというのは、絵葉書?
  紙飛行機かもしれないが、
 同封されたものは、残っていない。
2、 文中「ヤット」とあるのは、三河弁
長い間、しばらく、という意味で使います。


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手紙内容チョットだけよ
栄の手紙から、
戦地の様子が分かります。
上海から上陸し、逃げる敗残兵を追いながら
掃討を続けている18連隊。
江南の地からの手紙です。

===一部引用===
栄 13年7月9日

六月二十三日 蚌埠出発以来、
一昨七月五日迄○○地区内の掃蕩実施。
二ヶ月振りで前警備地○○に帰還。
逃げ足の速い敗残兵は、遂に戦火を交える事無く 
○○地区以外に追放。よく目的を達成した訳です。
将校斤候も度々出ますが、
いづれも敵無く気合抜けのする様な事です。 
(中略)
雀の鳴声を近く聞き、遠い銀翼をひらめかし
かすかに爆音立て南下する数機江南の天地に、
平末の訪れと存じます。


戦う兵隊さんたちは、楽しみといって
慰問映画や慰問劇団などが一番だったのでしょう。
13年の6~7月頃(旧歴のようですが)
戦闘が一段落して一か所に落ち着いた模様で、
時折、慰問団の事が書かれています。

===一部引用===
栄 13年7月

昨日慰問映画があった。
古いものだが、赤掘源造東下り、
浪花節で言うと、そういう名になる筈であるが、
赤掘源造徳利の別れだったかもしれない。
そんな題のと泣笑い人世だった様に記憶している。
最近映画を観るかい。
その昔は狂に近い方だったが。


=====

当時は、娯楽といえば映画という時代でしたから、
恋人時代の二人は、
デートで映画も楽しんだようです。
峯子の生家の近くには、映画館もあって
足しげく通ったのでしょう。

昭和4年7月3日に、三河三谷駅が開業しています。
当時は、蒲郡ー愛知御津間に駅をつくるというのは大変難しい話で、
峯子の父平野利作をはじめ、地域住民たちが何度も要望の末
できたものです。
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峯子最後の手紙(21年10月15日)にも、この駅が出てきます。
南の海へ発つ前に、 それと知らずお別れした駅でした。
40℃も越える?暑い支那の地では、
汗かきの栄
水分補給に果物をかじってのどの渇きをしのいでいます。

===一部引用===
栄13年7月

討伐中なんか、水筒の湯は午前中位に済んでしまい、
午後は全く困るです。
然し幸い梨や桃がなっていますので、
これをかんでのどを湿しています。
梨や桃といえば、八菜居(八百屋?)
に売っている大きなおいしい梨や桃を思い出すだろうが、
そんな立派なものではない。
全くの野生種の如きもの。
一弘のにぎりこぶしより小さいもの。
まだそれも、充分色づかないけれど、
何よりのオアシスです。
また西瓜等見つけたが最後、にぎりこぶし位あったら
どんなに青くても、種までかじってしまうのですけど、
体をつかうせいか割合に腹をこわしません。


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ここ連日30℃を超す暑さ。
35℃を超える日は猛暑日というんだそうですね。
支那の夏は、これを超える暑さ??
汗かきの栄の労苦を想う峯子に習い
「暑い」とは言わないようにします。

さて、暑い日は冷菓も食べたくなります。
でも長男一弘君は、おりこうさんに
幼稚園の先生の教えを守っています。

===一部引用===
峯子 17年夏

一弘ちゃんの近況をご報告申し上げます。(中略)
「先生がキャンデーを買ってはいけません」と
御注意下さいましたそうでございますから、
店の前を通っても決して買って下さいと申しません。
また、お節句の日には
「お柏餅を沢山いただくとお腹が痛くなるから、
あまり食べないように」と御注意下さいましたので、
自分は勿論の事、私や祖母にさえ、
そのたびに注意してくれました。
「お祖母ちゃん、そんなに食べてもいいかね。
お腹が痛くなると困るよ」ですって。


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子どものエピソード
6月は、水道月間です。
蒲郡の水道事業の歩みは、
合併前の三谷町が昭和12年上水道創設認可したのが始まりです。
峯子の父、平野利作が町長の時です。
利作は8年間を務めあげ、退職するまでに
三谷魚港JR三河三谷駅など大きな事業を成し遂げています。

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峯子 16年12月

三谷の父は、去る十一月任期満了で
町長を辞められました。八年間の町制! 
時代の波に乗ったと言えばそれ迄かもしれませんが、
私達の目から見ても、
随分大きな足跡を残され、
三谷町躍進の跡はめざましいと存じます。


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退職後は、海軍に一万円を寄付して、
新聞に話題を提供したり、
毎日、新聞とラジオと火鉢と
仲善く暮らしていたとあります。
長男一弘君は、成長につれ
いろいろ楽しいエピソードがいっぱい記述されています。

1歳の頃は、いたずら盛りです。

===一部引用===

峯子 13年6月

一弘は此の頃歩く様になって、
お座敷へ行ったりお店へ出たり、本当に目が離せません。
今も兄が市外電話の最中に、
坊やがお店のスイッチを切り替えてしまいましたので、
「あっちへ連れて行け」って叱られましたのよ。
一ちゃん伯父様何って問いましたら、
廻らない舌で“あっちちれていけ”って真似しています。


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子どもの様子を書く峯子も
手紙を読む栄も、
成長ぶりに目を細めているのが見えるようです。
太平洋の奇跡」が、家庭でも!

あの感動をもう一度と
思われる方はいかが?

DVD&ブル-レイとも8月17日発売です。
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映画「太平洋の奇跡」







6月26日 「つなご縁
ラグーナ蒲郡フェスティバルマーケットにて開催されました。
蒲郡のいいモノ・コト・ヒトがいっぱいですwww

大場書簡を読み解く会も、出展してきました。
来月のパネル展のPRと会の紹介です。
峯子さんのお手紙の中にもあるんですが、
家庭防護軍の消火訓練に習って
モンペに白のかっぽう着という
戦中(?)スタイルで出かけました。

中央のステージでは、カラスの弁護人さんなど
それぞれからのメッセージタイムがあり、
すこし時間いただいてお話してきました。
キッズダンス、演奏、三河戦国武将や大道芸など


パフォーマンスもあって、にぎやかでした。
峯子の三谷の父・平野伊助は
14年6月、満洲に慰問に行っています。
===一部引用===
峯子 14年6月15日
三谷の父は六月二十六日、
宝飯郡代表で満州へ三河村(三河出身の移民ばかり居る部落)
へ移民の研究に行かれます


======

この、満洲への3週間ほどの
旅のお土産に黒ダイヤを買って帰るのですが、
平野家一族の中に、
まだ大事に持っている方がおられ、
編集者の間で、ちょっと話題でした。
峯子は、普段は気を張っていても
お手紙では、寂しさに
つい、弱音を口にしてしまいます。
特に、12~14年ごろのお手紙には、
峯子の寂しさが目につきます。
そんな峯子に、栄は
優しく諭します。

===一部引用===

栄 14年6月

非常時の折柄、
すべて非常時の苦痛と戦わなければならないと思います。
何時かは楽しい春も訪れる事と思います。
弱い女心を起こさずに、
力強く辛苦と戦われる様、希望します。
力強い便りを待っています。
とにかく、殺風景になりがち。
潤いのある便りを鶴首しています。


====

そうした栄の励ましと
子どもの成長の楽しみもあり、
15年以降は
「強い母」になっていく様が見えます。
大場栄さんと峯子さんのお手紙には、
豊橋に関連した話題がたくさんあります。

栄の職場が吉田方小学校だったこと
そのころの官舎が学区のはずれの五号にあったこと
五号でのエピソードは、
その後も託児所の手伝いに出かけたり、
花につけても、
空き家になってネズミの巣になって荒れていないか等
断片的に何度も繰り返し出てきます。
峯子は、軍服買い物に行ったり
子どもを目医者に連れて行ったりの折りに
電車で豊川(トヨガワ)を渡る時にも
五号を思い出しています。

ですから、
来月のパネル展を豊橋で開きたいという理由が
わかっていただけるかと思います。
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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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