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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
戦死者が増えてきますと、
未亡人も当然増えてきます。
恩給だけでなく生活設計ができるように
考えたのでしょう。
国は特別制度を作って
将校未亡人に就活を勧めていた?

===一部引用===
峯子 14年9月

戦死将校未亡人の方々に、
今度、特別制度で
東京女高師で二年間学んで
中等学校の女教員を養成なさるとか。
子供さんも、公(おおやけ)で見て下
さいますそうです。


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女教師という言葉は
栄は好きでなかったようでしたが、
女性の職場としてはなかなか良いでしょう。
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トーチカって、要塞とか陣地とかいう意味らしい。
戦場でも出てくる言葉なのですが、
お友達や知人の話の折りに、
「トーチカ心臓の・・・」と出てきます。
何事にも動じないマイペース、
人の噂もどこ吹く風・・・
のような方を称しているのでしょうか?

トーチカ心臓の女友達は、
峯子のお友達の中でも、何度も登場しています。
話題が豊富で楽しそうな方という印象です。
家族といっしょの海水浴に同行したり、
栄にも手紙を出したり、
慰問袋代にと峯子に手渡していますから、
二人ともに親しかった間柄なのでしょう。

でも、連れ子の男性と結婚し、
一時は幸せだったようですが、
できた子供は幼くして失い
弟も亡くして、悲しみに打ち沈む日々に
実家で静養しています。
そんな友達を、
峯子は気の毒がっています。


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手紙内容チョットだけよ
爽やかな季節 ゴールデンウィークの始まる「昭和の日」
ちょっと前までみどりの日でした。
「自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、
豊かな心を育む」ということになっていました。
もっと前の
栄と峯子のお手紙当時の4月29日は
昭和天皇の誕生日でした。
在位64年と歴代最長となった昭和の時代、
戦争、敗戦、復興、繁栄と怒涛の歴史をたどりました。
栄や峯子の生きた時代も
まさに「昭和」でしたね。
峯子は、学校の職場
タイプライターも時々打っていました。
現代のパソコンやワープロとは違い、
和文タイプは、文字数も多く大型で
操作も大変だったと思います。
新しい事に積極的に取り組む
チャレンジ精神旺盛な女性だったようですね。
峯子は、習って上手くなったら
タイプで手紙をお出しします
と書いていますから形跡はあるのですが、
残っていません。
ただ紛失したのか
手書きの物を取っておくべき価値があると
いうことなのか、分かりませんが。


もうひとつ、
峯子のバイタリティーを感じるエピソードを紹介します。
戦後の話ですが、
峯子は、婦人会や沢山の趣味の活動など
バイクで走り回っていたという話です。
それを聞き、
寂しがり屋で栄の帰還をただ泣いて待っているだけの
女性ではなかった事を痛感しました。


マラリアは、熱帯・亜熱帯地方の感染症です。
手紙の中では「マラリヤ」と書かれています。

夏の厳しい暑さの支那大陸では
マラリヤにかかる兵士が多く、
栄もマラリヤにかかってしまい
何度も発病しています。
しかし、野戦病院では
良い薬があったおかげで、
すぐに解熱していたようで、
薬さえあれば
マラリヤは怖くない病気だったようです。

===一部引用===
栄 15年夏

三日ばかり前から、
猛烈なマラリヤにおかされて大変苦しめられた。
今まで一度もかかった事がないので
もう絶対かからないと信じていたのが
今頃発病せられて、
すっかり悲観した。
大部分の者がかかるにはかかるんだが、
俺の体だけは大丈夫と思っていただけに、びっくりした。
熱が40度 脈拍112 
夜中うなされたのか、注射で大変よくなった。 


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栄は、帰ったら
峯子に看病してもらおう、それも楽しみだ
と甘えています。(^0^)♪


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戦地の状況
栄は、最初
峯子が学校で働く事を
好ましく思っていなかったようです。
事前に相談が無かった(郵便が遅れたから?)
行き違いがあったことや
峯子が職場が忙しくて手紙が書けないような時
「だから職業婦人は嫌いだ」
女教師という言葉は好きになれん」とか書いています。
教育現場を知っていたからこそ
「まさか最愛の妻を、荒い波風の前にたたせようとは」
思っていなかったからかもしれません。
でも、
教育は大切な仕事だと自らも理解していたでしょうから
峯子が1年勤めあげた頃、
せっかくの機会に恵まれたのだから、
子どもの教育体験を学んで生かせ、と
激励もしています。
峯子の職場には、女の先生が8名(看護婦含めて)いたようです。
若い男性は戦地に取られていきますから、
女性教師の比率の多い職場だったかも?
峯子の給料は33円とか。
臨時雇いではなく、正規の職員としての額?でも
栄の軍人の俸給や教職時代の給料に比べても、
とても安かったようです。
ですから、峯子は、自分で働いて初めて
栄に俸給袋を渡された時を思い起こし
「今思うと
あなたに感謝しなかったのを
すまないと存じます」と
反省しています。

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当時の社会
初めての方には、
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豊橋広小路の精文館では、

ミニパネル展示
をしています。
大場栄と峯子ご夫婦の写真と手紙原本、紹介のテレビ番組要旨など。
正面奥の階段の踊り場です。
同市豊川堂(ホウセンドウ)では、
新聞記事の紹介などと
郷土コーナーに「太平洋の奇跡」と並べてありました。


大場栄さんの出身地蒲郡の書店の様子(2月)
発売から2カ月経った現在では、
店頭のコーナーからは奥になりましたが、
新聞記事や映画のポスター等も掲示して目立ってました。

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出版関連の話題
峯子の手紙には、何人かの女友達が出てきます。
女学校時代のお友達や幼馴染らしいですね。
本には掲載されなかった部分でしたが、
仲良しだったお友達も、
結婚は出来ても相手が子持ちの再婚で
想いが叶えられなかったり
いろいろな家庭の事情から憂鬱な日々を暮らしていたり
精神の病に冒されたり
早くに亡くなったりと、
時代の波に翻弄されています。
そんな時代でしたから、
峯子は、まだ自分は幸せだと
思い込もうとしていたようです。
峯子の手紙は、皆4~6枚ぐらいの
便箋に書かれています。
ですが、栄の手紙にはハガキがたくさんあります。
絵葉書には、
兵隊の絵の描かれたものの他、
慰問で送られたものなのでしょうか
女優さんの写真も混じっていたりします。

軍の決まりで、
封書ではなく
ハガキでないと出せないこともあったようです。
検閲も楽だったからでしょうか?
峯子は時々香水を使っていたのでしょう。
手紙に香水の香りをつけていますし
栄もよい香りのする手紙を貰い
「お前の香りだったな」と
懐かしそうな記述も見えますから。

ところが、栄も
慰問品に香水を入れてくれと言っています。
峯子は、「あまりの身だしなみの良さに心配」
焼きもちも焼きそうですが、
饐えた戦場に、ほのかな香水の香りもよいものだと
応えています。

峯子の香りって
どんなんだったんでしょう?
峯子は、手紙や慰問袋と一緒に
子どもや自分の写真をたびたび送っています。
戦地で、敵に包囲されても
栄は、家族の写真に元気付けられます。

===一部引用===
栄 13年4月21日

四十余日間の討伐で「もう駄目だ!」
と観念して、然もこれだけ沢山の敵がいては
凱戦なんてことは夢にも思えないと
悲痛な決心をしていましたが、
一弘やお前の写真を見たら、また急に朗らかになりました。


======

きっと、家族の写真は
ポケットに忍ばせていたのでしょう。
栄が、サイパンに行ってからの活躍を描いた
映画「太平洋の奇跡」でも
そんな兵士のシーンがありましたね。

☆穀雨 [ こくう ]
二十四節気の一つ。
春の温かい雨が降って、穀類の芽が伸びて来る頃。
天文学的には、
天球上の黄経30度の点を太陽が通過する時。

この頃は雨の降る日が多くなり、
穀類の種子の成長を促進するので、
種蒔きの好期となります。

栄の実家は農業をしていましたから、
こうした時期には作物のことを心配したり
支那の菜種や麦畑の情景なども
よく書かれています。

===一部引用===
栄 13年春

未だ草木は芽吹きませんが
一度にパッと
青景色になる事かと存じます。
麦もまだ一寸位しか伸びていません。
してみると
内地より寒いのかも知れませんが
大体大陸は
麦の伸び方は遅いのです。


14年春

中支の戦場にも春が訪れて
荒れた岩陰に、時々タンポポやスミレの
咲いているのを見受けます。
麦が二寸位に伸びています。 
この便りが君の手に入るまでには
麦も四、五寸に伸びる事でしょう


======


栄は峯子に負けないくらい子煩悩ですね。
峯子からの手紙に、最愛の長男一弘の話題がないと
一番知りたいのは、子どもの事だと分かっているのか?
と、催促しています。
教育パパというのでしょうか?
峯子への手紙に何度も
甘やかせるな」と書いていますが、
自身でも、子煩悩と認めています。
かわいくて仕方がない様子が見て取れます。

===一部引用===
栄 16年ごろ春

何でもよいから、
又、画を書いたら送らしてくれ。
絵本なんかたくさんやっているかな。
教育材料は
十分与えなくてはいけない。
お前より俺の方が子煩悩かもしれないな。


====
戦地では怪我は付き物ですから、
軍医や病院もなかなか充実していたようです。
栄も何度戦傷で入院していますし、
盲腸(虫垂炎)でも手術しています。
薬で痛みを散らす事もできるが、
本部を遠く離れて
第一線の戦闘中にでも発病したら
命にもかかわる事なので、
思い切って手術したとあります。

===一部引用===
栄 15年秋

地方と違って隊では手術も簡単です。
必要とあらば脚の一本や二本はおろか、
脳でも腸でも手術する進歩した医学ですから、
虫垂炎位心配には及びません


=====

執刀医は、
ベルリンオリンピック金メダルの前畑選手の
ご主人だったようです。
峯子たち家族にも心配かけないよう、
配慮の記述が見られますね。


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戦地の状況
峯子の13年の4月ごろの手紙に、
青森など東北からの出征兵が、
東海道線を使っているような記述が見えます。
大部隊ですと、臨時の出征列車をしたてていたようです。

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峯子
先日、五列車くらい臨時の出征列車を見ました。
麻生の三兵隊と、青森とかもその一部分でした。
十八連隊も、もう検閲が済む頃ですから
近々出征でしょうと、専らの噂でございます。


====ここまで

当時の人々は、
こうした兵隊の慌しい動きでも、
戦況を感じとっていたのでしょう。
峯子は、
栄が戦地に行く前に
「お約束してくださいね」と契っています。
言いたいことは書かなくても分かるでしょう?
と念押しする峯子に、
栄はもちろん、約束は守ると言っているのですが、
手紙が届かないと、
「そうだな。お前の嫌がる約束を反故に・・・」と
脅迫(?)しています。
もちろん、戦場に女性はいませんが、
大きな都市などには、クーニャンを見かけるとか
栄は書いています。
女優さんのプロマイドなどが
慰問袋に入っていた折には、
「妬きもち焼きのお前にしては上出来」と
栄も喜んでいる風でした。(^0^)

峯子は、
妬きもちより、
栄に喜んで欲しかったからなのでしょうね。


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「峯子の寂しさ」
昭和14年に白米禁止令が出ています。
服飾が無くても栄養が偏らないように?
代用食も奨励していますから、
食糧不足を補うためなのでしょうか?

15年に「絶対禁止」と峯子が書いていますから、
それまでは、お目こぼしもあったのでしょう。

===一部引用===
峯子 15年8月

白米が絶対禁止になりました。
すぐにお腹の空く白米等より七分搗きの方が、
どんなに良いか分りません。
今更、七分搗等と騒がなくとも、
お炊事では五年も昔から七分搗になっております。


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手紙内容チョットだけよ
榮は、自分の愛馬「白星」の性格を
どことなく自分に似ていると
形容していますが、
ちょっと短気だったかも。
自分でも謝っていますが
ストレスのたまる軍隊生活の鬱憤
峯子に向けているという部分があったようです。


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栄の人柄・好み
親子丼というメニューが、
お手紙に何度か出てきます。
峯子の手紙に、
一弘を連れて竹島近くに散歩に行った折
食堂で注文するのに
「僕、断然親子丼だね!」
と言うのです。
栄の出した絵葉書の図柄に
「親子どんぶり」の幟がありましたので
それを覚えていたのか、
親子で食べるからなのか、
単に卵と鶏肉が好きだったのか、
本当のところは分かりません・・・・
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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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