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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
11月3日は文化の日です。

国民の祝日と決められた1948年(昭和23年)には、
「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」として国が制定しています。
文化が享受できるよう
いつの時代にも、世界のどこでも
自由と平和がいつまでも続くようにしたいですね。



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平和へのメッセージ







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峯子16年11月2日の手紙の冒頭
菊の話題の次に、
===一部引用===
峯子
今日は第一日曜日、
明日は明治節の佳き日でございます。
明日午后より幼稚園の運動会がございます由。


=====

明治節って、明治天皇誕生日なんですね。
近年歴代天皇の誕生日は、
大正天皇を除いて、ほぼ
国民の休日になっていますね。

運動会って、11月に開催していたんですか。
涼しすぎるかしらと思いますが
この頃は、旧暦だったかなぁ?
17年の夏に、新暦でお盆を・・・ということが
書かれていましたから。






菊の花のシーズンですね。
峯子も栄も秋は思い出のたくさんある季節ですが、
菊の思い出も懐かしく語られます。

峯子が、
===一部引用===
峯子 16年11月

十一月の声を聞きました。
秋もいよいよ深まり、
菊の花が今を盛りと咲き乱れています。


====

と書けば、栄も応えて

===一部引用===
栄 12月1日


菊も美しく咲いている事と想像する。
こちらにも支那菊があるが、
菊をみると手塩にかけた住宅の菊や学校の菊を思い出す。


====

栄は、花が好きだったようで
戦地に行っても珍しい花や草を見て
言及したり採取してきたりしています。













なかなか時間が取れずに放置してあったDVDを
やっと思い出しました(**;)
夏に企画した「大場栄と峯子の戦火のラブレター豊橋展」の時に
録画してもらっていたものを
少し編集したいと思っています。
会場の様子や、編集者と読者の集いなど
お話し全部は長いので、
短いバージョンにして公開できたらと思っているのですが。

もうちょっとかかると思います。
今年中には・・・・・・・・
(峯子の・・・・・・思い出しました?)


きっと











4度目の秋から冬を迎えようという頃、
戦地で栄は
思い出の多い秋から厳しい冬に立ち向かう決意を込めて書きます。

===一部引用===
栄  15年10月30日

 “人生は 重き荷を負うて
    遠き坂道を行くがごとし”
 違うかも知れないが、
こんな格言があった様な気がする。
うまい名言だと思う。急ぐべからず。
とかく俺等は物事を急いでいけない。
落ちついて天運にまかせる主義でいきたい。
人を相争いせず、吾天を相手とする。
然り天を相手とせん。


=====


天を相手にすればこそ
過酷な戦場
何度もかすめる命の危機
辛い試練も乗り越えられたのでしょうか。




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栄の人柄・好み














===一部引用===
峯子 16年11月

昨日学校より、西住車長伝と云う松竹映画を見に行きました。
西住小次郎という熊本出身の中尉の奮戦記録の様な映画です。
(原作の)菊池寛氏は今、次事変の於ける軍神だと推賞されています。


=====

しかし、軍功なら他の人の方が・・・と峯子は酷評です。
映画好きの峯子ですが、
何でも好きというのではなかったようです。
近くに映画館もありましたが、
戦意高揚というのでしょうか、
当時は軍事色の強いものばかりが上映されていたのでしょう。







17年10月、
峯子は栄のもと、満洲海城
長男一弘を連れて渡ります。
出発の日は、定かではありませんが、
10月の末と思われます。

===一部引用===
峯子 10月20日

今日は今から母と豊橋へ買物に参ります。
十一月にご出張とのお便り拝し、
急に予定を変更、十月二十七日か二十八日に
出発いたしたいと大急ぎで支度いたしております。
おっしゃいますように、
出発の際にはまた電話で申し上げます。


======

峯子は栄の指示に従い
幼稚園児の長男一弘を連れ
鉄道と船と乗り継いで行きます。
出立前は旅支度で忙しく、買い物したり
新しい土地の事を心配したり
ソワソワしたりしています。
でも、
栄と一緒の暮らしができる喜びに
毎日があっという間だったと思います。









今日から読書週間です。

読書週間は、大正13年
日本図書館協会が「図書週間」(11月17日~23日)を制定したことから始まりました。
昭和8年には「図書館週間」と改称され、
出版界では「図書祭」が開催されていました。
しかし、戦争の影響で、昭和14年には一旦廃止されてしまいました。

敗戦後の昭和22年から、
日本出版協会、日本図書館協会、取次、書店の流通組織、
その他報道・文化関連団体30あまりが参加して
「読書週間実行委員会」が結成され、
11月17日から23日まで第1回の読書週間が行われました。
「一週間では惜しい」ということで、
2回目からは10月27日から11月9日まで文化の日をはさんだ
2週間となり、現在に続いています。

一度読んだ本でも、
読み返してみると、また
新しい発見があったりします。
ドラマチックな生涯を送ったお二人の往復書簡集
大場栄と峯子の戦火のラブレター
秋の夜長にお勧めの本です。


手紙の中でも、
子煩悩な栄は、峯子への手紙で
絵本を与えよと言っています。









10月26日はサーカスの日だそうです。
サーカスの日 というのは、
1871年(明治4年)東京・九段の招魂社で、
フランス人のスリエが日本で初めて
洋風のサーカスの興行を行ったことによるもの。
当時の雑誌によれば、ピエロなども登場したようですが、
人気はあまりなかったとか。

お手紙には、16年の秋、
豊橋で講行中のサーカスに、
兄の子と一緒に長男を連れて行ったことも出てきます。
猛獣使い、滝の白糸、空中サーカス、
青竹渡り、針金渡り、オームの曲芸などがあったとか。
駅前の仮小屋が、はち切れそうに賑わい
子どもも喜んで見ていたようです。





栄も峯子も映画が好きで、
よく映画館でデートもしたみたい。
戦地でも、兵隊さんたちの慰問として
映画や演劇などが上映されていたようです。
しかし、戦時中は、
従来のものも脚色されて時代にあうようアレンジされたり
啓蒙的なストーリーにものになっていたようです。

===一部引用===
栄  年月不明

昨日も今日も慰間の映画を見ました。
昨日は“うちの女房にや髯がある”。
利之君がこの歌を唄ってパピフペとか、何とかいった事を覚えている。
今日のは「ハリキリ親子」。
昔、三谷劇場かエビス座で見た事のある映画です。
もっとも終りの方が事季向々と変えられて
ニューモアな中にも事季色が織り込まれている様でした。
次は弥次喜多道中、なかなか優秀な映画です。
最近なかなか面白いものが来ます。
新年には活動でも見ますか。
三谷劇場やエビス座に昔の夢を偲ぶのもいいでしょう。


=====
●国連デー
1945年10月24日、
国際連合の発足を定めた国際憲章が発効したのを
記念したのがこの日。
ニューヨークに本部を置く
国際連合ことThe United Nationsは、
アメリカのルーズベルト大統領が考えた名称だそうです。
日本は1953年に加盟が認められました。

国連デーの1年前、1944年のこの日には
日本軍は、神風特攻隊のレイテ沖で
太平洋戦争のまっさかりでした。
栄たちサイパンの残存兵も
タッポーチョ山中でゲリラ戦をしていた頃でしょうか。







10月23日は、電信電話の日です。
これは明治2年9月19日(新暦換算して10月23 日)に
東京ー横浜間の電信線の設置工事が
始まったのを記念するものです。
今では当たり前に携帯電話がありますが、
そういう通信手段がなかった時代は、
外出先で連絡したい時には困った事でしょう。

峯子の手紙に(16年暮れごろ)
妹と、もう一人の妹婿の赴任先の浜松に出かけた折、
知り合いと思われる兵隊がホームで呼んでいたと
電車の中で隣の人から聞かされ、
電車はもう発車していて、
次の駅で降りて戻ろうかどうしようと迷う場面があります。

===一部引用===
峯子 16年12月

(文作氏:峯子の義理の弟)「いくら呼んでもお姉ちゃんは、すましていて、
こちらを見ないから
万策尽きて飛び乗ってしまった」ですって。
でも危ない所で、(すれ違ってしまわず)
お目にかかれて本当に良かったと嬉しく存じました。

======

こういったエピソードも当時ならでは。
こんなときでも、携帯電話があれば、
ヒヤヒヤ心配しないですんだことでしょうが。
便利な機器のある時代はありがたいですね。

峯子も栄も楽しみにしていた三谷祭
今週末の10月日22(土)~23日(日)です。
その三谷の八剱神社の境内にある水神様の所に、
峯子の弟・益夫さん発見!

元海軍大尉・平野益夫の名前で金壱萬円の寄付をしています。
年月は不明ですが、
一万円はかなりの大金だった筈ですから、
ちょっと驚きです。
峯子の父も16年、海軍に一万円寄付したのをを思い起こします。
三谷祭見物にでもいらっしゃいますなら、
石碑を探してみてください。
お手紙の中では益夫さんは、栄と竹島の橋での釣りや、
出征の折りの家族写真などの話題が思い出されます。



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思い出の場所など














蒲郡はみかんの産地。ハウスも路地もあります。
今年は、なり年って、みかん農家さんから聞きました。
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」本の表紙のカットにもあるように
栄の自宅のあったあたりは、
みかんの畑が広がっています。
そのみかんの畑での出来事は
いつまでも二人の甘い思い出として残っています。

===一部引用===
峯子 15年 10月21日

また、蜜柑の出る頃となりました。
甘いような酸っぱいような舌の感触!! 
二人だけが知っている蜜柑の思い出! 
思い起すたびに甘酸っぱく胸の疼くのを
どういたしようもございません。


====

裏のみかんの木
4ヶ月後には
弾丸列車の工事の為に
切られてしまうことになるのですが・・・・







日本三大奇祭のひとつと言われる「三谷祭
2011年は10月22日(土)・23(日)開催です。
江戸時代からの伝統があるという
豪華絢爛な山車を海へ引き入れると言う
他では見られない部分は、
きっと理由があったのでしょう。
境内までの道が狭くて通れなかったとか
峯子の郷里、三谷の人々の
祭りにかけるエネルギーは多大なものです。

ところで、
ほかの二つの奇祭って、どういうおまつりなのでしょう?
あれ?
ネットで調べてみると、
三台奇祭といわれるものは全国各地にあって三つどころがいっぱい!!
とりあえずネット版検索ヒットを見てみました。
10位まで転載
1位 吉田の火祭り 48
2位 島田の帯祭り 47
3位 諏訪の御柱祭 33
4位 西大寺のはだか祭り 25
5位 普光寺の裸押合祭り 17
6位 国府宮のはだか祭り 9
7位 浅間温泉の松明祭 8
8位 大避神社の牛祭 3
9位 黒石の裸祭り 2
9位 四天王寺どやどや 2
9位 鍋冠まつり 2
12位 宇治のあがた祭り 1
・・・・・・

三谷祭も検索してみてくださいませ。・・・・・






峯子は17年秋から
満洲海城で栄といっしょに暮らしています。
その準備に追われる10月
新しい生活への不安を漏らします。

===一部引用===
峯子 17年10月20日

今までのわがままがたたって、
これから始める堅苦しい生活が
峯子に上手に切り廻しが出来るかしらと、
昨夜も夜中頃から寝ないで案じられました。
お目もじ出来ます嬉しさよりも、不安の方が先立ちまして、
とにかく支度する手が鈍りがちでございます。


====

堅苦しい生活というのは、
軍隊の家族官舎ですから、
今までの実家のようには気ままには過ごせないと思うからでしょう。
また、栄の報酬
第一線の戦場より手当がつかない分
安かったからでしょうか。
新しい土地での暮らしはどんなだったでしょう。

海城では
一緒に暮らしていた筈なのに












続きは・・・
このブログは、アトランダムな手紙の解読と同じように
気ままに綴っておりますが、
読んでいらっしゃる方に
興味を持っていただけるよう、
季節や栄や峯子の手紙に出てくる日に合わせて書いています。

10月は、その意味で記念すべき日が沢山あって、
なかなかに充実しています。
10月10日の雨の日の出来事
峯子の本当に最後の手紙
栄の一度目の葬式
思い出の秋祭り
などなど、
二人の「秋」のエピソードはたくさんあります。


「大場栄と峯子の戦火のラブレター」書籍の方は、
順序立ててお読みいただけますので
分かりよいと思います。


このブログの読み方















21年10月になって書かれた峯子の本当に最後の手紙には、
自宅葬のことや、
新聞で目にした「サイパン生き残り」の記事のこと
三河三谷駅で別れてからのこと、
急ぎ満州・海城へ帰り、一人で後片付けしたこと
兄弟などの消息、
その他、便箋8枚に綴られていますが、
最後に、あなたにお会いしたら
最初にお詫びしたい、と
書かれています。

きっと、
栄が海城から南方へ出立する時に
見送り出来なかったことを
ずっと悔いていたからなのでしょう。


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峯子の寂しさ






一度目というのも変ですが、
南方で戦死との通知が、
昭和20年8月、峯子の元に届きます。
その頃は
混乱の中でしたでしょう。
10月3日公葬(当時の新聞記事による)の後、
自宅葬が行われたのは、20年10月16日です。
その事は、翌21年10月15日に書かれた
峯子の最後の手紙にあります。

===一部引用===
峯子 21年10月15日

昨年の明日(十六日)は、
貴方様の自宅葬儀の日でございました。
黒の喪服に水晶の数珠をつまぐる峯子の姿は、
今考えただけでも瞼が熱くなります。
でもその時は、涙一滴落とさないで、
さぞ他人目には健気に見えました事と存じます。
昨年八月公報入手、
一昨年サイパン島玉砕の悲報より、
覚悟はいたしておりましたものの、
余りの悲しさ辛さに・・・・泣けるだけ泣いて
魂の抜けた人間のような日を過ごしていました。


====

この引用部分は、
8枚の手紙の1枚目にありました。










===一部引用===
峯子 21年10月15日

何から先に申し上げましたら、
この峯子の嬉しい気持ちがお解りくださいますかしら。
本当に、
ようこそお元気でおいで下さいましたわね・・・・・。
満復の感謝の意を捧げます。


======

この喜びに文字も踊る手紙は、
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」出版後になってから
他の手紙の束の中にまぎれ、見つかったものです。
いつものお手紙の倍近く
8枚の便箋にびっしりと書かれています。
きっと、栄が「帰る」と知らせた返事で
書かれたものが、
宛先が不明だったか、
間に合わなかったか、
何らかの理由で出されなかったものなのでしょう。

この手紙で、いろいろな事が分かりました。
手紙で言及されていた新聞記事もあり、
裏付けがされています。

よくぞ書いていただきました。
峯子さんの筆まめに感謝です。






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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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