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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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昨日のパネル展豊橋
編集者と読者の集いの中で、
元郵便局員さんのお話がありました。
戦地の部隊は、どんどん移動していくと、
逓信省(今でいう郵政省)からの派遣で郵便局員が
戦地先で野戦郵便局を開設して、
戦地からの郵便物をまとめて
本国に送っていたといいます。
また、日本では、大きな袋で届いた郵便物は、
それぞれの地区に仕分けて届けるのは、今も一緒ですね。
豊橋の局では、十八連隊もあり、多くの郵便物を扱っていたのでしょう。
また、検閲の判がないと送れない決まりで、
ハガキが多かったとも語ってくださいました。

栄から峯子への手紙
検閲の印

13年(?)の航空郵便には、30銭の切手が貼ってあります。


===一部引用===
17年の峯子の手紙

五月から郵便法改正で、
切手代が五銭に値上がりいたします。
一寸こたえます。


=====

といいますから、航空便の30銭はかなり出費?
栄は、自分でもせっかちと言っていますが、
普通郵便だと
さっき出した手紙がまだ届かないうちに
前の手紙の返事が来るのが
「話がトンチンカンになっていけない」と
もどかしかったのか
時折航空便を出していたようです。
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満洲は黒ダイヤが名産品だった?
黒ダイヤって、石炭の事みたいですけど、
そうなんですか?

======
峯子 14年7月

三谷のお祖父様は、
一昨日満州から三週間振りに
視察を終えて帰っていらっしゃいました。
お土産物に黒ダイヤの指輪を、姉妹皆頂きました。
この頃は金の統制で、
金指輪等麗々しく外へはめても出られなくなりましたので、
国策に添ってサンプラ指輪です



======

華美を避けた時代、
サンプラというのは、サンプル(?)
模造品のようです。
しかし、峯子の妹の子どもさんは、
そのときの指輪を
形見として大事に取ってあるという話を聞きました。


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当時の社会
峯子は、三谷小学校に勤めていた昭和15年~17年くらいでしたか
よく日直しながらお手紙を書いています。
学校が休みの日は、
しばしば日直当番が回ってきているようです。
夕方になって、交代する人が来ないとか
書かれていて、夜はまた別の宿直があったのでしょう。
昼間の静かな教室で、
隣のお寺の読経を聞きながら、
窓から海など眺めながら
新婚時代の思い出など言い及び
「神聖な教室で惚気(のろけ)を言ってはいかん」
と栄にたしなめられたりしていました(^0^)

家にいては家事や育児で
ゆっくり手紙を書く時間がとれなかったでしょうから、
日直という時間は、
峯子にとって貴重なお手紙タイムだったと思います。


三谷小学校に勤めていた峯子は、
夏の水泳の練習が始まると、
気が重いトボヤいています。
日焼けしてしまうのを気にしています。

===一部引用===
峯子 15年7月

大嫌いな水泳練習が始まりまして、
今日は四日目でございます。
肩や腕が日焼けの為にピリピリと傷みます。
気を付けておりますけれど、
顔も大分、日焼けいたしました。
今帰っていらっしゃれば嫌われてしまいそうで、
心配でたまりませんけれど・・・・・・
いずれ染った物は、また、はげる事と
職務に忠実に勤めております。


====

今帰っていらっしゃれば・・というのは、
栄が色白好みということだったからでしょう。
日に焼ける夏が嫌いとよく書いていました。

三谷小学校は、海が直ぐ近くでしたので、
水泳の訓練は、海で授業だったのでしょうか?
プールっていつごろできたのかなぁ?

昭和4年7月3日に、三河三谷駅が開業しています。
当時は、蒲郡ー愛知御津間に駅をつくるというのは大変難しい話で、
峯子の父平野利作をはじめ、地域住民たちが何度も要望の末
できたものです。
85b4e96e.jpg





峯子最後の手紙(21年10月15日)にも、この駅が出てきます。
南の海へ発つ前に、 それと知らずお別れした駅でした。
6月は、水道月間です。
蒲郡の水道事業の歩みは、
合併前の三谷町が昭和12年上水道創設認可したのが始まりです。
峯子の父、平野利作が町長の時です。
利作は8年間を務めあげ、退職するまでに
三谷魚港JR三河三谷駅など大きな事業を成し遂げています。

======
峯子 16年12月

三谷の父は、去る十一月任期満了で
町長を辞められました。八年間の町制! 
時代の波に乗ったと言えばそれ迄かもしれませんが、
私達の目から見ても、
随分大きな足跡を残され、
三谷町躍進の跡はめざましいと存じます。


====

退職後は、海軍に一万円を寄付して、
新聞に話題を提供したり、
毎日、新聞とラジオと火鉢と
仲善く暮らしていたとあります。
男女平等といっても、
男性中心の社会は、なかなか改まりませんが、
6月23日は男女共同参画社会の記念日です。
1999(平成11)年6月23日、「男女共同参画社会基本法」が公布・施行されました。
その前後を「男女共同参画週間」としています。
(男女共同参画推進本部が2000(平成12)年12月に制定、
 2001(平成13)年より実施)

栄と峯子の時代は、
当然、女が出しゃばるような事はありませんでしたが、
若い男性が皆戦地に取られていないのですから、
残った女性たちは、
「女だてらに」
銃後の暮らしを守るために頑張っています。

===一部引用===
峯子 17年秋

また家庭防護群の訓練は、もっと猛烈でございます。
戸毎に一人以上参加し、
各区別に焼夷弾が或カ所に落ちたものと仮定して、
焚木に火を付け消火訓練! 
それも大部分女の人ですので、
裾が足にからまらない様にもん平をはき、
頭には戦闘帽または大黒頭巾をかぶり、
いでたちも甲斐甲斐しく警防団の合図のリンと共に、
手に手にバケツを持って焼夷弾の落下した場に集まり、
バケツの手渡しで水をかけて、
少しでも早く消す練習を管制中毎日毎日練習しています。


====

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当時の社会

現在の東山動物園ができたのは、
昭和12年3月の開園、前年の7月3日が地鎮祭でした。
東山動物園の歴史より)
ですから、峯子が栄のひと月程の一時帰国の後、
見送りに行った帰り、 一弘を連れて動物園に行った16年は、
まだ真新しさのある動物園だったでしょう。

しかし、その年の暮れには日本は太平洋戦争に突入、
動物たちも受難の時代となります。
しかし、園長などの懸命の努力で
東山動物園の像は、戦争中も生き延びます。
戦後、生き残った象を見たいと、
全国からの子どもたちを載せて走る象列車の話
絵本や合唱曲になって語り継がれています。

1949年(昭和24年)6月18日、最初の象列車が走った日です。

彦根発着、1400人。国鉄名古屋鉄道局による設定。
第2陣は、1949年(昭和24年)6月25日(当初の予定では5月22日)、
東京発着、エレファント号、15両編成。
上野駅、日本交通公社、東京日日新聞の共催。
1156名の子供たちが象を見るために乗車した。
ウィキペディアより抜粋

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三河港は、
峯子の父・利作が三谷町長の時に
5年の工事でやっと完成します。

===一部引用===
峯子 15年6月14日

五ヶ年計画で着工いたしました三谷港も、
物資不足の折柄、やっと完成いたしましたので、
本日、来賓多数参列で、
盛大な竣工式がございました。


======

三谷港は、水産資源豊富な三河湾の水揚げで
賑わった事でしょう。

現在は、蒲郡(三谷から西浦)・豊橋・田原も含め広く三河港の一部として
機能しています。

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当時の社会
一昨日の東日新聞に、
豊橋花園商店街の記事が載っていましたが、
歩兵18連隊のあった豊橋市内、
軍で入用な物の他、
日用品も大きな店があって、
峯子は、豊橋でいろいろな買い物をしています。
は、札木の足立靴店、
服の注文は、花井洋服店に。

======
峯子 15年
早速でございますが、短袴がご入用とのお事、
お兄様が豊橋へ参りますついでがございましたので、
お願いいたしました。
昨年の冬服も花井洋服店へお願いいたしましたので、
今度も花井洋服店にいたしました。


=====
6月1日は衣替え。
このごろは天候に合わせて
切り替え時期として余裕をもたせている所が多く
一斉に夏服に切り替えるという事はないようですが。

栄の軍服も、支那は暑いので、
半ズボンにしているようです。
4月くらいに峯子に注文しています。

===一部引用===

峯子 15年5月

短袴がご入用とのお事、(中略)
今度も花井洋服店にいたしました。
短袴だけで金二十二円でございます。
三十日までに出来上がるそうでございます。
洋服屋さんのおっしゃいますには、
この頃は生地が少なくなって
中々こんな生地は得られないから、
上衣も揃えて作った方が良いように
おっしゃいましたそうでございます。


====

素材もそろそろ不足してきた様子が読み取れます。
花井洋服店というのは、
豊橋市内花園あたりの洋服店かと思っていましたが、
出入りの靴屋もある札木あたり(豊橋の駅近く)にあったようです。


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当時の社会
峯子の父は、なかなかできた方で、
三谷の町長を長年務めあげています。
水道・三河三谷駅等の事業に大きな貢献をしているようです。
町会議員にも立候補しています。

===一部引用===
 みねこ 

三谷の父が、町会議員に立候補いたしました。
選挙は五月二十五日でございます。
余す所、三日程でございます。
入選して下さればよいがと、とそれのみ案じています。

=====

町役場は、現在の三谷小学校の南にありました。
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初めての方には、 このブログの読み方
峯子は、栄に送る慰問品
ワイシャツ、靴下、肩章菓子など送っています。
靴については、履く本人が不在で注文ができないので、
兄の足に合わせたものを送っています。
既製品は当時少なかったのでしょうか。
13年5月19日豊橋郵便局から発送の靴について。

===一部引用===
峯子

靴は、豊橋市札木町の足立靴店で買い求めましたから、
御気に召しませんのでしたら、
御叱言は向うへどうぞ。
三谷の兄さんに、足に合わせて頂いて見ましたが、
履けますから、貴方様も大丈夫だろうと存じます。
既製品ですけれど、注文ですと急には間に合いませんので
ごめんなさいね。
去年の七月以来、革の高値で倍になっているそうです。
品不足で、売りたくないような口振りでした


=====

靴屋が売りたくないというのは、
本当でしょうか?
笑えますが。


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「当時の社会」
栄の実家では、農業とともに養蚕も家業としています。
春蚕は、特に収量も多く
農家の収入源としても大事なものでした。
世話の忙しい時期には、
三谷にいる峯子や母たちも、子連れで手伝いに行っています。

===一部引用===
峯子 15年5月

今日、春蚕のおやまで、
三谷の母と一弘ちゃんと、
一日お手伝いに牧山へ行かれました。


====

太平洋戦争後にできた日本国憲法は、
戦争をしないという事が書かれていますので
(これが変わらない限り=変えてはいけませんね)
もう、日本は世界のどことも戦わない
どんな国の人にも銃を向けないという
意思を表明している立派な国です。

大場栄と峯子は、日中戦争・太平洋戦争の時代
戦争に人生を翻弄された多くの人たちの中でも
大変幸運な命を長らえた方たちです。
軍国主義のまかり通った世でしたが
その手紙の中に込められた気持ちを
わたしたちは
70年も経った手紙の文面から読み取ることができます。


5月3日は憲法記念日なのですが、
世界報道の自由の日でもあるんですって。
戦争放棄とともに、言論の自由も
大事な権利の一つですね。
戦死者が増えてきますと、
未亡人も当然増えてきます。
恩給だけでなく生活設計ができるように
考えたのでしょう。
国は特別制度を作って
将校未亡人に就活を勧めていた?

===一部引用===
峯子 14年9月

戦死将校未亡人の方々に、
今度、特別制度で
東京女高師で二年間学んで
中等学校の女教員を養成なさるとか。
子供さんも、公(おおやけ)で見て下
さいますそうです。


======

女教師という言葉は
栄は好きでなかったようでしたが、
女性の職場としてはなかなか良いでしょう。
爽やかな季節 ゴールデンウィークの始まる「昭和の日」
ちょっと前までみどりの日でした。
「自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、
豊かな心を育む」ということになっていました。
もっと前の
栄と峯子のお手紙当時の4月29日は
昭和天皇の誕生日でした。
在位64年と歴代最長となった昭和の時代、
戦争、敗戦、復興、繁栄と怒涛の歴史をたどりました。
栄や峯子の生きた時代も
まさに「昭和」でしたね。
峯子の職場には、女の先生が8名(看護婦含めて)いたようです。
若い男性は戦地に取られていきますから、
女性教師の比率の多い職場だったかも?
峯子の給料は33円とか。
臨時雇いではなく、正規の職員としての額?でも
栄の軍人の俸給や教職時代の給料に比べても、
とても安かったようです。
ですから、峯子は、自分で働いて初めて
栄に俸給袋を渡された時を思い起こし
「今思うと
あなたに感謝しなかったのを
すまないと存じます」と
反省しています。

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当時の社会
初めての方には、
このブログの読み方
峯子の13年の4月ごろの手紙に、
青森など東北からの出征兵が、
東海道線を使っているような記述が見えます。
大部隊ですと、臨時の出征列車をしたてていたようです。

======
峯子
先日、五列車くらい臨時の出征列車を見ました。
麻生の三兵隊と、青森とかもその一部分でした。
十八連隊も、もう検閲が済む頃ですから
近々出征でしょうと、専らの噂でございます。


====ここまで

当時の人々は、
こうした兵隊の慌しい動きでも、
戦況を感じとっていたのでしょう。
戦時中は、軍事色が強いですね。
軍人さんだけでなく
一般人の暮らしも、戦争に向けてのものになっています。
「富国強兵」とかいって
愛国貯金を勧めたり、
兵役に耐えられる強い体を作ることも国の為と奨励されます。
滅私奉公で私事は、あとまわしです。
戦況が逼迫してくると、
軍需優先でエネルギーを使うので、
一般生活には電気がお休みの日があったとか。
生活物資も不足してきますと、
華美を避け節約を強い精神も総動員
食べ物にも規制がかかり、代用食が謳われます。
家庭婦人にも消火訓練や銃を持つ訓練をしています。

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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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