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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
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輸入が途絶えると
国内のみでは需要をまかなえず、
いろいろな産業の材料不足になってきます。
残念ながら年度が不明ですが、
3月ごろの峯子の手紙に、当時の物価の事が書かれています。

===一部引用===
峯子

毛織物が原料輸入禁止でちょっと手に入らなくなりました。
夏のモーニング一揃二百円だそうですって。
背広の三つ揃いでも百円以下では見られないって、
月給取りの暮らし難い世の中になりにけり・・・


======

純毛製品やウール毛糸も品薄になってきます。
手に入れた貴重な毛糸で
峯子は、子どもや榮のセーターを編んでいます。


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当時の社会
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戦争中は、多くの軍事資金を
国民からも集めています。
「貯蓄報国」といって奨励していました。
軍人も愛国貯金を強いられていたようで、
榮も5円俸給から出しています。(13年頃)
また債権もたくさん発行されていて、
年によっても違いますが、
年間80~100億円以上も扱っていたとか。
16年には、なりふり構わず(?)の170億って…;@0@!

愛国貯金を奨励する絵葉書(昭和15年)
支那事変の貯蓄債券(15年発行)
画像はいずれも「日本の戦時債券」より


一人で子どもの産めない峯子は、
貯蓄報国で頑張ろうとしていますが、
少ないお給料ではなかなか難しかったようです。

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当時の社会
ご入学の皆さま、おめでとうございます。

栄と峯子の長男・一弘君は、元気に育ち、
満洲の海城の小学校に通うことになります。

峯子は、入学式の日、
お祝いの赤飯を炊いています。

渡満に際しては、子どもの教育について
心配していた峯子ですが、
日本人の暮らしは、ほとんど内地とかわらずに
いろいろ揃っていたようです。
本当は12月1日らしいのですが、
関東や東海地方では毎月1日が映画の日になっている(?)らしい。

ということで、映画の話。

峯子は、栄に「映画狂」と言われるほど映画好き。
恋人時代にも、よく二人で蒲郡や三谷の映画館でデートしたようです。
三谷の恵比寿座(現在は駐車場になっている。八剱神社東)や帝国館の名も
何度かお手紙に登場します。
(三谷ウォーキングツアーにも恵比寿座跡地に寄りました)
恵比寿座隣接の八剱神社は、三谷祭りで有名です。

しかし戦争が激化してくると、
「このごろは高尚な映画がかからないのでつまらない」と
峯子はぼやきます。
映画を通して、
戦争礼賛軍国主義を謳っていたからでしょうか。

手紙本文にでてくる支那事変ですが、
栄の参戦している戦いの呼び名が
時期により微妙に変わっています。

開戦当時正式名称(昭和12年9月2日 閣議決定)は、
支那事変といっていたが
現在の日本では日中戦争と表記されることが多い。
支那事変は、日華事変、日支事変との表記も見られる。
(事変とは、広範の非常事態や騒乱をいう。
宣戦布告なしの戦争状態や、小規模・短期間の国家間紛争)

現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は
中国抗日戦争もしくは八年抗戦。
欧米では、
1894年~1895年の日清戦争を「First Sino-Japanese War
(日本語訳:第一次支那日本戦争)」と呼び、
1937年~1945年の日中戦争を「Second Sino-Japanese War
(日本語訳:第二次支那日本戦争)」と呼ぶ。

その後の太平洋戦争になると、
戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を
「大東亜戦争」と呼称。
米英などの連合国では、戦時中から
「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

ということで、国によって
呼称が違うんですね。
榮の出征後、15年・16年と続いて
二人の弟も戦地に赴きます。
男の子を皆、国外に奉公させた牧山の母は、
「天蓋を持つ人がいないので死ねない」
と申します。
天蓋というのは、
お葬式の時に喪主にかけるもので
野辺送りの名残だそうです。
このころ8昭和10年代)は、まだ野辺送りをしていたのでしょうか?
大きな町葬ですと
会場まで葬列が続いたようですから、
参列者は歩いたのでしょう。


栄は運よく帰ってきますが、
戦友は何人も白木の箱で
喪の帰還をしています。
峯子の手紙に、
朝の体操が始まりましたから・・」という記述があります。
ひょっとして、ラジオ体操?
ラジオ体操は、1927年(昭和2年)から
国民の体力増強・健康維持を目的に始まっています。

(かんぽ生命 ラジオ体操の歴史より)
峯子もラジオを聞いていたのでしょうね。
それとも、工場の人たちが始業時に
体操していたのでしょうか。
この当時は、丈夫な体をつくるのも
お国の為に役に立つ」のに奨励されたのです。


吉良の仁吉は、
清水次郎長の兄弟分として幕末期に活躍した侠客ですが、
義理に厚い人物として、
人情物の講談や浪花節(浪曲)、
演劇や数々の映画、歌謡曲などの題材として 人気でした。

しかし、戦時中は、
そのストーリーを変えてしまって
争いごとを止めて国防費に寄付しよう等と
上演されていたとか。

びっくり~~!!

文芸も、銃後の暮らしを強いられていたんですね。
当時は、農村地帯では
田植えとか稲刈りなどの農繁期に
短期的に「託児所」を作って
子どもを預かっていたようですね。
保育園のように、
常時開設しているのではなかったのか
峯子も1週間ぐらい
託児所の手伝いに行ってたような記述があります。
子連れですから、
「お手伝い」だったのかどうか分かりませんけれど。
東京電力管内では、
福島原発事故で電力が足りず、
戦場を彷彿とさせる現場
関係者の懸命な努力が続いています。
しかし首都圏では計画停電(あんまり計画が変わるので、
無計画停電と揶揄されてますが)で
さぞ不便なことでしょう。

戦争中は、電休の日があったようです。
当時は、今とは桁違いに
電力消費量は少なかったと思いますけれど。
戦争による設備被害と復興に伴う電力需要のため、
電気が不足し、利用量を抑えるため
逼迫してきた1946(昭和21)年、
電気需給調整規則が制定されますが、
電気休みは、それ以前からあったんですね。
日業務用、産業用など業種ごとに週1回、各地で定められ
劇場や公衆浴場にも休みがあったとか。
理容組合や百貨店の定休日も電気休みの日にあわせたらしい。
地区ごとに電気が止まる輪番停電もあったようです。

でも、普段から節電の心がけは必要ですね。
それにしても、

戦地では、新聞もラジオも世の中のニュースが
毎日届くと言う事はなかったでしょう。
内地からの慰問品なのか
サンデー毎日の話題が、15年~17年ごろ出てきます。
三谷の女青(女子青年団)に峯子の妹がいるので
部で毎週とっていたものを送ったらしいのです。
榮からも届いているという返事がたびたびあります。
きっと、内地の世の中のニュースを
懐かしく、世の中の動きも
感じとっていたのでしょうね。


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当時の社会







今年ご卒業の皆さん、おめでとうございます。

当時も、やっぱり卒業式の予行演習をしています。
峯子の勤めていたのは、三谷小学校
昭和15年・16年ごろの手紙です。

===一部引用===

来る二十四日は卒業式でございます。
この生活に飛び込んで曲りなりにも、もう一年経ちました。
この頃は峯子の生活も大分板について来ました。
でも毎日忙しい事は予想外でございました。
お陰で峯子自身も色々と教育されました。

===

今日は卒業式でございます。
この二週間ばかり、学期末の総決算で大多忙を極めました。
仰げば尊し 我が師の恩
  教への庭にも 早幾何年
昨日、予行演習がございました。
卒業生が声を張り上げて歌うのを聞いていましたら、
幼かりし日がほのぼのと思い出されて懐かしくなりました。

======
おひなさまは、女の子のお祝い。
女児の初節句には、
実家へ帰ってお祝いをしたようです。
栄の出征中に
峯子の妹や、栄の姉には
女の子が生まれていますから、
お雛祭りも賑やかだったでしょう。
栄の帰還の節には、
たくさんの甥や姪がお出迎えすることでしょう
などとも峯子の手紙にありましたね。



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当時の社会
今日28日。明日から3月ですが
来年はうるう年で、2月は29日までありますね。
地球の動きに合わせている太陽暦では、
4年に一度、余った1日を2月のうるう年で調整をしています。
峯子の手紙には、うるう年ならぬ「うるう月」が出てきます。
これは、旧暦で月に合わせた数え方だと、
1年が13の月になってしまう年は、
6月にうるう月として2回も6月があるんだそうです。
今は新暦(太陽暦)を採用していますが、
年中行事は、旧暦でみた方が
季節的にしっくりいくことが多い気がしますね。

15~16年頃の峯子の手紙には、
うるう月のほか、
新盆とか旧正月に武運長久とか
思い出の旧正月のバザーのこととかが
入り乱れて書かれていて
月日の同定に困りましたね。
沖の白帆を数えた紀元節も、旧暦の紀元節だったでしょうと思います。


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「当時の社会


栄からの手紙は、「軍事郵便」と印が押してあり
切手がなかったので、
一般の郵便物とは別に特別に扱われていたのでしょう。
しかし、航空便は更に「航空便」として
切手も貼って消印もあります。

当時の郵便事情では、普通便はすぐに届かないことが多かったようです。
峯子は、航空便を貰うと、
「急ぎの用事は何か? 怪我でも?!?」と胸騒ぎもしたようですが、
栄は、航空便の方が早く着くので
「話がトンチンカンに」ならなくて良いと思っていたみたいですね。

編集段階では、航空便は消印があるので
うれしくて(^0^)
日付を目の皿のようにして見ていましたが、
後日、切手に関心のある友人が、
「軍事切手」は価値があるとか言っていました。
消印のインクばかり見ていたので、
どんな切手だったのか、全然覚えていませんけど・・・
でも、価値は
封筒の切手
より
お手紙の内容の方が、、、、と思います。



当時の日本は、挙国一致で
お国の為に滅私奉公。
四字熟語が沢山ですね。w
軍事色一色ですから。
身体検査に合格したほとんどの男子は、
兵役に就いたのです。
一人前の兵隊になることは名誉なことで、
皇国の為にお役に立つことが
求められ、あたりまえの風潮がありました。


幼稚園はどんな感じだったのでしょう?
文部省の初等教育関連資料を見ると
幼稚園の前身は明治からあったみたいですが、
昭和13年~15年に教育令を改正していますから、
幼児教育熱も盛んだったのでしょうか。
峯子は、
一弘の幼稚園について、
牧山か三谷か迷った上、
三谷の幼稚園が程度も高いといって
選んでいます。
現在は、三谷に二つ幼稚園がありますが、
通ったのは
三谷東だったのかなぁ?
峯子が三谷小学校に勤務していた1941年(昭和16年)
それまでの尋常小学校から制度が変わります。
国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて、
6年の初等科と2年の高等科からなる国民学校となります。
初等科はそれまでの尋常小学校などを母体とし、
高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていました。
国民学校令の施行とともに、
それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は
すべて国民学校とされています。

国民学校は、同盟国である
ナチス党政権以降のドイツの初等教育に起源をもつと言われ、
「子供が鍛錬をする場」と位置づけられ、
国に対する奉仕の心を持った
「少国民」の育成がめざされていたともいわれています。
軍国少年を育成していたんですね。


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「当時の社会」
14年頃のお手紙ですが、
今月は電力不足で五日おきに電休がございます。
また明日も休みで

という記述が出てきます。

停電じゃなくって、
電気ってお休みの日があるんだ~!
びっくりですね。
日本はエネルギー資源を外国に頼っていますからね。
輸入できなくなれば、当然のことかも。

そういえば、
映画館の昔の展示パンフレットにも
5日に一度の電休でも、
上客の女工さんたちは交代制なので
映画館は休みにせず、
上映は特別許されていたなんていう
事が書いてあった・・・・。
長男一弘の満1歳(かぞえでは二つになる)のお祝いは、
栄不在で、5月の端午の節句
お帰りになるまで日延べをしていますので、
なかなか子どものお祝いができません。
3歳になる頃、「髪置きの祝い」という言葉が
出てきます。
これは、男女とも3歳の11月15日に、
初めて胎髪を切るという儀式だそうで、
子どもの成長を祝う節目なんですね。

3歳は髪置きの儀
5歳は袴着の儀(男児)
7歳は帯解きの儀または紐落とし(女児)
で、七五三なんですね。



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2011年2月に出版。
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