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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
栄は、さっぱりした性格だったのでしょう。
ちょっとした行き違いによる諍いで
厳しい事
を書いても、
叱られた峯子が謝って涙に滲んだ手紙をよこしたり、
2・3通手紙が続けてくると
もう、
「気にするな。
もう何を書いたか忘れている。」
と、こだわらず
すぐに優しい言葉を添えています。

現代のように、すぐ返事が来るわけでもなし、
戦地との郵便事情もあり、
なかなか時間がかかったりしていますから、
前の手紙の返事がまだ届いていなかったり、
トンチンカンだったりもしていたようです。
ですから、栄はたびたび航空便を送っています。
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戦時中は、軍事色が強いですね。
軍人さんだけでなく
一般人の暮らしも、戦争に向けてのものになっています。
「富国強兵」とかいって
愛国貯金を勧めたり、
兵役に耐えられる強い体を作ることも国の為と奨励されます。
滅私奉公で私事は、あとまわしです。
戦況が逼迫してくると、
軍需優先でエネルギーを使うので、
一般生活には電気がお休みの日があったとか。
生活物資も不足してきますと、
華美を避け節約を強い精神も総動員
食べ物にも規制がかかり、代用食が謳われます。
家庭婦人にも消火訓練や銃を持つ訓練をしています。

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当時の社会
やんちゃぶりを発揮している長男は、
愛情をいっぱいに育ち、満州海城の小学校に通います。
当時1年生の国語(かきかたヨミカタ)は、
アカイ アカイ
から始まったようですね。(1941昭和16年~20年国民学校
ひらがなじゃなくて、カタカナなんだ~。

津久井郷土資料館>戦前の教科書より
===一部引用===
峯子 昭和18年5月

一弘は毎日元気に通学いたしています。
宿題の「アカイアカイ」は
先生の所へ提出いたしませんでしたが、その翌日、
また宿題で「アカイアサヒ」と書いて参りましたら、
三重丸を頂きましたので、大喜びで駆けて帰りました。 


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今回ご紹介するのは、
本の感想ではなく、
大場栄と峰子の戦火のラブレターパネル展でもご案内した
2月17日
本の内容を紹介したテレビ番組「奇跡体験!アンビリバボー」の
感想一部転載です。

【戦火のラブレター】 戦争で犠牲になった人たちのことを思うと、涙が出てきます。旦那さんが無事に帰還して再会できたことは本当に奇跡的なことだと思います。戦時中は左利きの男性は銃を撃つために右利きにされたという羽山誓さんのコメントも衝撃でした。戦火で交わしたラブレターが残っているのがすごいですね。夫婦の絆にはっとさせたれた時間でした。あの当事、純愛があったのかということにも驚いて見ていました。(やっぴー・女・主婦・20's)2011/02/17 22:01:41

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【戦争を知らない私】
戦場のラブレター、感動しました。ご夫婦の深い絆に心打たれました。羽山誓さんと云う方が当時の銃は右利き用に作られていたので左利きの人は右利きに矯正させられたとおっしゃっていました。私の亡くなった祖父も元々左利きだったのですが、右も使えました。戦争の話はしたがらない人だったので、本当のところはわかりませんが、もしかしたら、羽山さんがおっしゃっていたことが理由なのかもしれませんね。(さち・女・会社員・30's)2011/02/17 21:57:44

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【今日の放送分】
今日の放送内容について.戦争について勉強させていただきました。大場栄さん&峰子さんのストーリーよかったです。終戦を知らず.必死に戦った栄さん素晴らしいと思いました。終戦8年後に再会出来た喜びは.何物にも変えがたい幸せ。今は…もう.亡くなっているそうですが.ご冥福をお祈りしますと.次男様にお伝え下さいませ。(けいこ・女・個人事業主・30's)2011/02/17 20:57:40
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テレビ見逃した方は
輸入が途絶えると
国内のみでは需要をまかなえず、
いろいろな産業の材料不足になってきます。
残念ながら年度が不明ですが、
3月ごろの峯子の手紙に、当時の物価の事が書かれています。

===一部引用===
峯子

毛織物が原料輸入禁止でちょっと手に入らなくなりました。
夏のモーニング一揃二百円だそうですって。
背広の三つ揃いでも百円以下では見られないって、
月給取りの暮らし難い世の中になりにけり・・・


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純毛製品やウール毛糸も品薄になってきます。
手に入れた貴重な毛糸で
峯子は、子どもや榮のセーターを編んでいます。


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当時の社会
栄は時々釣りを楽しんでいました。
蒲郡では磯釣り、五号では豊川河口近くの川釣りでしょうか?
峯子の弟と一緒に釣りを楽しんだ事もあったようです。
峯子は、三谷港辺りで竿を持つ人を見て、
支那でも釣りができますか?
と尋ねてています。
戦況が落ち着いた頃には
クリーク(網目状の水路)に大きな魚がいて
時には釣りもしたようです。
===一部引用===
栄 4月半ば

いよいよ太公望の時期ですね。
一弘君でも連れて釣りに出かけませんか。
一弘君でもつれて魚釣りに三人で出かけたら、
どんなにか楽しい事と思います。


===引用ここまで===

などと、栄は書いています。
しかし

===一部引用===
栄 16年秋

釣って帰って
調理して食べる相手のない今の自分には
釣りの興味が出ないのは、
やはり太公望の極意を知らないものに見える。


===引用ここまで===
とも。
家庭人としての栄像」が伝わりますね♪ 
大場栄と峯子の戦火のラブレター」の出版話を
最初に聞いてから、もう1年近くになります。
本格的に編集に着手してから10か月。
ブログの連日更新記録も、
半年続いています。
アトランダムに書いていますので、
大変に雑多取り混ざっていますが、
カテゴリーごとにお読みいただいたり、
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利用して
キーワードで探していただくことで、
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本ブログの主なカテゴリー
作業の裏話
思い出の場所など
当時の社会
戦地の状況
栄の人柄・好み
峯子の寂しさ
手紙内容チョットだけよ
子どものエピソード
映画「太平洋の奇跡」

等に分けています。
軍隊では馬も大切にされています。
愛馬の日には、式典もあったようです。

===一部引用===
榮の手紙 16年4月

 四月七日は愛馬の日で、
何か記念(式典?)がある筈である。
遠乗をする予定でいる。
俺の馬はせっかちでどうも乗り難い。
主人の俺の性質に何と無く似ている様な気がする。
外見は立派な愛馬で、駆足は矢の如く速いが、
ガチャつくのが難点だ。
忙しくてなかなか乗る暇も無いが、
やはり動物でも自分の馬は可愛い。
盾に白い星があるので「白星」という。


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戦地の状況
戦争中は、多くの軍事資金を
国民からも集めています。
「貯蓄報国」といって奨励していました。
軍人も愛国貯金を強いられていたようで、
榮も5円俸給から出しています。(13年頃)
また債権もたくさん発行されていて、
年によっても違いますが、
年間80~100億円以上も扱っていたとか。
16年には、なりふり構わず(?)の170億って…;@0@!

愛国貯金を奨励する絵葉書(昭和15年)
支那事変の貯蓄債券(15年発行)
画像はいずれも「日本の戦時債券」より


一人で子どもの産めない峯子は、
貯蓄報国で頑張ろうとしていますが、
少ないお給料ではなかなか難しかったようです。

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当時の社会
吉田方小学校栄が勤めていた頃、
五号という学区の端にある官舎に
暮らしていました。
が降ると、水たまりができて
学校に通う子どもたちを、
村の人が牛車に乗せて送って行ったような所でした。
今では堤防もできてしまっていますが、
その頃は、川べりでよく釣りもしていたようです。
豊川(とよがわ)・六条潟が近く
海産物に関わる方が多かったのでしょう。
五号の人から海苔を貰ったと
栄の手紙に出てきます。
また、峯子も
一弘を連れて六条潟に潮干狩りに行きたいが、、、
と、懐かしがっています。
ご入学の皆さま、おめでとうございます。

栄と峯子の長男・一弘君は、元気に育ち、
満洲の海城の小学校に通うことになります。

峯子は、入学式の日、
お祝いの赤飯を炊いています。

渡満に際しては、子どもの教育について
心配していた峯子ですが、
日本人の暮らしは、ほとんど内地とかわらずに
いろいろ揃っていたようです。
峯子は、他人の前では気丈に振舞っていますが
お手紙ではつい甘えてしまします・・・
と、寂しい胸のうちを綴ります。

===一部引用===
峯子 昭和17年4月

待ち侘びて四年半!

三月三年会はずとも、
いとし恋の若奴に

こんな歌の流行った事もございましたわね。
四年半なんですもの随分長い年月と存じます。
一日千秋の思いとか申しますのに、
別れ別れて千四百余日になるんですもの。
神様は、私達の存在をお忘れではございませんかしら?


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峯子の寂しさ
榮は、現豊川(御津南)や豊橋(吉田方)の小学校で先生をしていたのですが、
戦地でも先生を務めていた事があります。

ー====一部引用==

今度 下士官候補者の教官として
信陽兵学にいます。
師団の下士官候補全部集合して教育します。
内地の教導学校です。
こちらでは教導隊と言っています。
まず、今の学生が卒業するまで約四ケ月、
七月五日卒業です。


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4カ月くらいで卒業なのでしょうか。
次のクラスの下士官も教育していたようです。

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戦地の状況
本当は12月1日らしいのですが、
関東や東海地方では毎月1日が映画の日になっている(?)らしい。

ということで、映画の話。

峯子は、栄に「映画狂」と言われるほど映画好き。
恋人時代にも、よく二人で蒲郡や三谷の映画館でデートしたようです。
三谷の恵比寿座(現在は駐車場になっている。八剱神社東)や帝国館の名も
何度かお手紙に登場します。
(三谷ウォーキングツアーにも恵比寿座跡地に寄りました)
恵比寿座隣接の八剱神社は、三谷祭りで有名です。

しかし戦争が激化してくると、
「このごろは高尚な映画がかからないのでつまらない」と
峯子はぼやきます。
映画を通して、
戦争礼賛軍国主義を謳っていたからでしょうか。

手紙本文にでてくる支那事変ですが、
栄の参戦している戦いの呼び名が
時期により微妙に変わっています。

開戦当時正式名称(昭和12年9月2日 閣議決定)は、
支那事変といっていたが
現在の日本では日中戦争と表記されることが多い。
支那事変は、日華事変、日支事変との表記も見られる。
(事変とは、広範の非常事態や騒乱をいう。
宣戦布告なしの戦争状態や、小規模・短期間の国家間紛争)

現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は
中国抗日戦争もしくは八年抗戦。
欧米では、
1894年~1895年の日清戦争を「First Sino-Japanese War
(日本語訳:第一次支那日本戦争)」と呼び、
1937年~1945年の日中戦争を「Second Sino-Japanese War
(日本語訳:第二次支那日本戦争)」と呼ぶ。

その後の太平洋戦争になると、
戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を
「大東亜戦争」と呼称。
米英などの連合国では、戦時中から
「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

ということで、国によって
呼称が違うんですね。
榮の出征後、15年・16年と続いて
二人の弟も戦地に赴きます。
男の子を皆、国外に奉公させた牧山の母は、
「天蓋を持つ人がいないので死ねない」
と申します。
天蓋というのは、
お葬式の時に喪主にかけるもので
野辺送りの名残だそうです。
このころ8昭和10年代)は、まだ野辺送りをしていたのでしょうか?
大きな町葬ですと
会場まで葬列が続いたようですから、
参列者は歩いたのでしょう。


栄は運よく帰ってきますが、
戦友は何人も白木の箱で
喪の帰還をしています。
峯子と榮の一粒種、ご長男の一弘君
お手紙のあちこちに、やんちゃぶりが見受けられる
可愛い坊やです。
5歳(数え年)のころには、
峯子の手紙と一緒に、たびたび
栄の元に絵を送っています。
当時の男の子ですから、
家族の顔とかの他、汽車とか飛行機とか軍艦とか?

榮はそれを見て
「上手いのか下手なのか分からないが・・」
という評に
「お父様は目が悪いね」
と、お茶目で口達者な一弘君です。

お手紙の発見当時は、
沢山の封筒や便箋の束がアトランダムでしたので
整理番号を付けて打ち込みをしていました。
だんだん様子が分かってきて
ジグソーパズルのように
年代順に並べられるようデータ整理しています。
でも、
まだ不明なものもかなりあって
原本は、まだそのままになっています。
二人がやり取りするようになった
昭和12年からの手紙が多いのですが、
それ以前からの手紙もあります。
少し時間を取れるようになったら
ファイリングしたいと
その準備にかかっています。
原本には、番号を書いたりできないので、
1通ずつクリアファイルなどに入れて
分類できるような番号を付け直ししようと思っています。

そのための、お手紙冒頭の部分だけを
整理番号順に書き出した一覧表を作っているのですが、
まだ、「大場栄と峯子の戦火のラブレター」に
掲載されないお手紙も、読み返すと
とても、素敵な記述に出会い、
一人でほくそ笑んでおります。(^▽^)
峯子の手紙に、
朝の体操が始まりましたから・・」という記述があります。
ひょっとして、ラジオ体操?
ラジオ体操は、1927年(昭和2年)から
国民の体力増強・健康維持を目的に始まっています。

(かんぽ生命 ラジオ体操の歴史より)
峯子もラジオを聞いていたのでしょうね。
それとも、工場の人たちが始業時に
体操していたのでしょうか。
この当時は、丈夫な体をつくるのも
お国の為に役に立つ」のに奨励されたのです。


峯子は、長男を育てながら、
周りで妹や義理の姉に
次々と生まれる女の子を見ているのは、
羨ましく辛かったと思います。
長男一弘も、
そんな峯子の気持ちを知ってか知らずか
赤ちゃんが欲しいと子どもらしいおねだりを口にします。

峯子が第2子を授かったのは、
満洲海城にいる時だったのですが、
榮は、その子の顔を見ることなく
南の海に向かうのでした。



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HN:
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性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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