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日中戦争(昭和12年)前から太平洋戦争サイパン島に渡る前までの七年間にわたって交された数百通の大場榮と峯子の往復書簡。戦地と故郷とを行き来するラブレターから当時の様子を垣間見る。 栄のサイパン島での活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」「タッポーチョ 敵ながら天晴 大場隊の勇戦512日」をご覧ください。
映画「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~」の大場栄大尉と
「大場栄と峯子の 戦火のラブレター」の手紙文面に見る大場栄とは、
かなりギャップがありますね。
もちろん、戦場という場所も違うし、戦う相手も違うわけですが。
映画の大場大尉からは、まるで想像できない
人間「大場栄」が、日中戦争時代の手紙には表われていますね。
父親として、夫として、恋人時代の思い出や、妻への思いやり、子煩悩だったり、峯子への気持ちなど
とてもロマンチストで、時にはポロっと寂しい気持ちがこぼれたりします。
しかも、郷里を離れて、9年間の別離。
今の時代には、想像できないふるさとへの強い想いがあったでしょう。

日本中が、戦争一色の時代に書かれた
妻へのラブレターは、
兵士であっても、一人の人間であること、
支え続けた妻との愛情の絆の強さを
改めて感じ取ることができます。

何度読み返しても、
また感動の生まれるお手紙です。
大場栄と峯子の戦火のラブレター


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栄の人柄・好み
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手紙の中で、栄の一番の関心事は、
長男一弘君の事です。
峯子の手紙には、ほとんど毎回の話題に出てきます。
17年4月から、一弘君は幼稚園に通っています。
===一部引用===
栄  17年4月

一弘の幼稚園の状況はいかがですか。早く知りたいものなり。
当分の間御無音するので、
その便りに接する暇も無い事と思うが残念なり。 
なかなか郵便物も来ないので、
一週間~二週間に一回位の平均で到着する様です。
(中略)
一弘の状況を成可早く知らせて下さい。
他の子なんかどうでもよろしい。

====

(^_^) 他の子なんかと言われていますが、ww
峯子は、次々生まれる一弘君のいとこに当たる兄妹の子どもの事も
書き記していますので。

栄が「無音」と言っているのは、
遠征や演習・討伐などで数週間から数カ月、
本部を離れていることもあり、
手紙がなかなか届かなかったようです。
しかし、峯子は結構書いています。
参考:手紙の頻度





栄は、16年11月に中隊長に就任し、
17年春~夏ごろは、教導隊で先生をしています。
1月に目覚ましい活躍で戦傷(人違いの報道)していますので、
前線から一歩退いていたのでしょうか。
内地で小学校の先生の経験があったからでしょうか?
進軍中と違い、隊の本部に将校(当時は中尉)の部屋もあったようで、
部屋の模様替えなどしています。

===一部引用===
栄  17(?)年4月ごろ
今日は部屋を掃除して大変綺麗になりました。
答案用紙の廃物を利用して、黒い壁を糊り、
竹で天井を編んで箱の様な部屋になりました。
大変心持が良いです。

====

他にも、栄は慣れない針仕事で敷布で浴衣のような寝巻を作って
部下から「小隊長は何でもやりますね」と言われています。(13年10月の手紙)
手仕事も工夫しながらするのが
上手かったようですね。




今年は巳年で、竹島八百富神社が春の大祭を行うため、
朝から花火が上がっています。
通常年は、秋だけに行われるものを
12年に一度は大開帳もある春祭りをします。
三谷の天白神社の春祭りは、
4月の第2日曜なので、来週です。
蒲郡市の指定無形文化財になっています。
江戸時代から伝わる御神楽が有名です。
栄と峯子にも思い出の御神楽芝居です。


「思い出の場所など」カテゴリーを見る
なぜでしょうか?
アクセス数急上昇の訳は??


【追記】
理由が分かりました。
日本映画放送チャンネルというところで、
太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~」が放映されたので
検索された方が多かったようです。
ツイートもされていました。

再度ご覧になりたい方へ  放送予定は、
4月8日(月) 13:30
4月20日(土) 16:30
4月23日(火) 13:30
にもある模様。

放送時間は予告なく変更されることもあるようですので、ご注意。
日本映画放送チャンネル
自分の時間でご覧になりたい方は、DVDでも。
レンタルされてもいるようです。
関連図書

映画「太平洋の奇跡」カテゴリー





この週末は、春の嵐ですが、
今晩も風雨が酷くなってきました。
16年の4月、峯子の手紙にも夜半の嵐とあります。
===一部引用===
峯子 16年4月10日
春の空と女心は何とやらと、諺にも申します毎く、
午後からの雨が風に変るらしく、
外は雨の音に風をまじえています。
満開の桜の花も夜半の嵐に散り始める事でしょうと存じます。
また今年も、馬場の花も岡崎の夜桜も見ないでしまいそうです。

====

秋だけじゃなく、春の空も移り変わるのが急なのね。

例年ですと4月の第1週に桜まつりが開かれるところが多いのですが、
この風では、みな散ってしまいそうですね。
岡崎は、岡崎城でしょう。
この地方では桜の名所として名高いです。
夜桜は、この頃からもあったのですね。
馬場はどちらでしょうか? 分かりませんが。

このお手紙は、本に収録していますが、
この部分はカットしたので、本には載っていません。
お手紙は、とても分量が多く、
編集して全体の一部を本にしましたので、
未収録も多く残っていますので
まだまだ「チョットだけよ」がございます。

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手紙内容チョットだけよ






峯子には妹2人と末に弟がいました。
お手紙には益ちゃんとして
自転車旅行など、時折話題に出てきます。

===一部引用===
峯子 13年3月末か4月初めごろ
益ちゃんも、やっと待望の高等商船学校に
入学出来る事になりましたので、
非常に本人も喜んでいます。
五百余名の志願者中、五十名定員だとか申していました。
中旬には入学で上京する筈でございます。

====

【注】益夫:その後海軍に入隊、
      17年9月に入営の前に家族そろって祝賀の記念写真を採っています。
      大尉に昇進、戦後(?)、
      三谷八剱神社に寄付の石碑が残っています。


似島(ニノニマ)は、広島宇品港から南を臨むと、
対岸正面に見える稜線の美しい安芸小富士と呼ばれる島です。

宇品は軍都広島の要所、軍艦や船舶のひしめいていたであろう所で
外国へ行くにはここから出て行きました。
大場栄さんが、中支に向かった昭和12年も、この宇品港から出港したのでしたし、
19年2月にサイパン(当初はグアムだったらしい)へ向かう
運命の崎戸丸に乗ったのも、宇品からでした。

似島には、当時、日清戦争時代からの捕虜収容所と
検疫所がありました。
ですから、外国からの船はすべて、
伝染病の検査などで、兵隊も軍馬もここで留め置きになりました。
暁部隊の本部は、もう一つ南の対岸に見える江田島にありましたが、
訓練は、似島の浜でも行われ、
常時マルレのボートを密かに収納した洞窟(?)もあったようです。
第一級の軍事機密で憲兵なども配置していたといいます。
小笠原さんもここで訓練ししていたのでしょう。
手紙の住所にあった大黄地区には、
将校の宿舎などがあったようです。

近くの浜で、猛特訓をしたのでしょう。
当時のことを知る物はほとんど残されておらず
軍が使った桟橋の石組みが残っているくらいです。
資料(似島自然臨界少年自然の家HPより)
原爆の20年8月6日朝、軍のみならず一般市民など多くの犠牲者を
爆心地から船で運んだり救護に当たったのは、
小笠原さんの所属した陸軍船舶暁部隊だったそうです。
(小笠原さんは、8月6日は福山に居て助かった)
島には、救護の甲斐なく亡くなられた多くの方々を
埋葬した千人塚が残されています。
似島に建立された慰霊碑には
今でも、お花が絶えません。


現在の似島は、広島市似島臨界少年自然の家があり、
圏内外から訪れる青少年の野外活動や平和教育の場として利用されています。
地元の研究家M氏、少年自然の家には、
暁部隊の資料をいただき、島内案内もしていただき、大変お世話になりました。


広島見聞記(1)









.
平和宣言都市広島に行ってきました。

戦争の深い傷跡を残す広島に、平和を願う人たちが訪れています。

この日も、桜の満開の時期で平和記念公園を訪れる方が多く、
若い方、外国のお客様もよく見かけました。

ちょうど、慰霊碑前を通りかかって、福島の高校生たちが地元の高校生と
交流セレモニーの場面にも居合わせました。
平和記念資料館で、ボランティアの方から、説明を聞き、
大変勉強になりました。
資料館の企画展で、似島(ニノシマ)のことも紹介されていました。
原爆で負傷した方の治療のために使われた検疫所のあった所ですが、
対岸の爆心地から輸送されても、治療かなわず亡くなられた方々のあまりに多さに、
悲惨極まりない状況だったとのことです。

合掌

太平洋戦争末期の19年になってから編成された
陸軍船舶練習部第十教育隊(通称暁部隊)のマルレ作戦は、軍部の中でも極秘で、
活動期間も短く、機密保持されたためあまり知られていません。

この広島研修旅行は、
海の特攻マルレ作戦の陸軍船舶隊に従軍し
福山で終戦を迎えた小笠原久雄さんの手紙から
その所縁の地を訪ねたいというのが主目的です。
彼の手紙集「明日からは百姓になります」にある地名を
尋ねていきます。
翌日は、訓練をしたという似島にフェリーで渡ります。
広島見聞記(2)




第二次世界大戦で行われた暁部隊の特殊任務「マルレ」について
明日から百姓になります」の手紙を書いた
小笠原久雄さんの任務地だった
広島へ行ってきたいと思います。
報告は、また、帰ってからのお楽しみに。




そろそろあちこちで桜の便り。

春を代表する花ですね。
日本人はどうしてこうも桜が好きなのでしょう。
花の時期は1週間ほどしかないというのに。
だからこそ、なのでしょうか?
花時に、花見をせんとや出掛けけむ
散り際が潔いと、軍歌にも多く歌われています。
 峯子は、五号の桜には縁がなく1度も見ていないと言いながら
春の大好きな栄に押し花桜の塩漬けを送っています。







卒業式が終わると、春休み。
栄は試験休みと言っていました。

===一部引用===
栄 16年3月
今日は三月一七日、学校も卒業式のある頃だ。
一貫は卒業する事と思うが、旅順行きは確定か。
お前の学校の卒業式は何日か。
試験休みになるので、一弘も楽しみが増すことと思う。
五号の潮干狩りは未だ行って来ませんか。
試験休みに行って来たら良い。

====
【注】 一貫 栄の弟

そろそろ、潮見表が気になる季節。
五号は、二人で新婚時代を送った思い出の地(豊橋)ですが、
蒲郡にも、遠浅の浜で潮干狩りのできる海岸が沢山あります。
峯子も、一弘君を連れてたびたびアサリ採りに出かけています。



当時、上流階級や会社役員、兵士の制服は洋服ですが
一般の女の人や子どもの普段着は、
着物姿が普通で
洋服は「お出かけ着」といった感じでしょうか。
家族や女工さんたちと撮った写真にも、
たいていは縞や伝統的な模様の地味な感じの和服です。

洋服も既製品は少なかったのでしょう。
峯子は洋裁も習ったのか、
コートも自分で作ったりしています。
峯子は、勤務先の学校には、
洋装で行っていたようですが、
改まった場所や式典には和装で行くと、
皆に褒められ、ちょっと自慢気な様子を
栄への手紙に書いています。
子どもも、普段は着物で裸足か草履。
洋服に靴は、少し裕福な層か
お誕生日の記念写真に身につけるものだったのでしょうか。
誕生日のプレセントに、
洋服を、という記述が時折見られます。

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当時の社会




栄と峯子の長男一弘君は、昭和12年3月16日生まれ。
1歳(かぞえでは2歳)のお誕生を前に出征した栄は、
長男の誕生日にプレゼントを、と手紙に書き記します。

===一部引用===
栄  昭和13年2月22日
一弘はどんなにか可愛好くなった事だろう。
もう「失敬」や「今日は」が出来れば大したものだ。
一弘の姿や顔が頭に浮んで来る。
親馬鹿かも知れないが、俺はなかなか立派な利口な奴だと思う。
おそらく峯子も同感だろう。峯子も親馬鹿かな。
早く洋服も新調してやるがよかろう。
また玩具も色々与えてやるがよい。
 (中略)
もう誕生が来るから誕生にでもうんとプレゼントしなさい。

====

栄も3月生まれということもあり、
一弘の写真が欲しいと何度も催促しています。
子煩悩な「父親としての栄」が現れていますね。
13年3月、峯子は、父の勤める三谷町役場の臨時雇いに
ひと月ほど従事することになります。
年度末の業務でしょうか。
そのことについて、栄は次のように書いています。
===一部引用===
栄  13年2月22日
峯子が役場の臨時雇いとなっている件、確に承知しました。
誠にお前にまで苦労をかけて済まないが、それもよかろう。
仕事を一生懸命やったら何も忘れて楽しみも出よう。
また社会学の一面も触れる事が出来よう。
然し、峯子は何処までも子供の母であり、妻である。
しとやかさを忘れては困る。それさえ峯子が自覚していれば、
僕に文句はない。

=====

栄の女性観が表れていますね。
でも、女性教師は、あまりよくは思っていなかったらしい??


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栄の人柄・好み
峯子は俳句が好きで、句会に籍を置き、沢山投稿もしたようです。
その中に、雑誌に残っているものに
春眠に 兵舎の記憶 夢に見し
とあります。

兵舎の記憶というのは、
豊橋の十八連隊ではなく、きっと
一緒に暮らした海城の兵舎だったと思います。
峯子の夢に出てきたのは、
不安を胸に一弘を連れての渡満で、初めて目にした時の事だったのか?
短かったが日々雑事の書ける平凡な暮らしだったのでしょうか?
それとも、近くには居ても思うような生活で無かったもどかしさでしょうか?
それとも、栄の南方へ出立に間に合わなかった無念の気持ち?
太平洋戦争中の1945年1月13日、三河で大地震があり
多数の犠牲者が出ましたが、
戦争中のこととで、戦意を喪失することを恐れ
大きく報道されませんでした。
しかし、地震による断層は今でも残り
「深溝(ふこうづ)」という地名にも現れています。
ウィキペディア三河地震

昔からどこにでもあった地震ですが、
今のように耐震家屋のなかった時代ですので、
当時、かなりの被害が出たようです。
しかし、国民には、戦意を喪失するとの懸念で
報道は大きくされませんでした。
当時は、情報の開示は軍部に都合の悪い事はされていませんでした。















「永遠のゼロ」太平洋戦争時の特攻を描く
百田尚樹氏の同名小説が原作で
同名のマンガも出版されていますが、
映画化され、2013年12月に封切予定とか。

ゼロ戦パイロットだった祖父・宮部久蔵はどう生きたのか?
同じ時代を生きた大場栄小笠原久雄とも
共通する部分がありそうです。

戦争を知る世代がどんどんいなくなる中、
風化を食い止める、話題作になると期待しています。
若い世代に人気の俳優さんらが演じるので、
「生きる」とは?「戦争」とは何だったのか、
それぞれの命を考えるきっかけになることでしょう。








峯子の周りは、妹にも栄の姉にも女の子の誕生が続き
雛祭りの話題が出てきます。
===一部引用===
峯子  15年3月2日
福尾家の七夜で、昨日お祝いの御馳走を頂きましたので、
母が牧山まで届けて下さいました。
今年は文子さんの初雛で、
どんなにか奇麗な雛飾りが出来ますことでしょうと存じます。
私達はどんなお雛様を買ってあげようかと、
今から楽しんでいますが、
忙しいのでまあ春休みになってから、
一弘ちゃんと豊橋まで出て行こうと存じています。

=====
【注】 福尾家:峯子の妹の嫁ぎ先
    文子さん:峯子の姪
峯子は周りで女の子が誕生する中、
一弘君の疑問(どうしてうちにはあかちゃんがいないの?)にかこつけ
栄への手紙にも次の子どもが欲しい気持ちをそっと伝えます。
峯子の職場の学校は、ちょうど年度末にも当たり、
これからの二十日間は
大多忙を極める事でしょうと書いています。


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峯子の寂しさ

今年は記録的な大雪のニュースで、
東北青森では、5m以上の積雪があるとか。

16年の冬、戦地でも猛吹雪と栄の手紙です。
===一部引用===
栄 16年2月22日
一昨々日珍らしくこの附近大雪が降った。
今年になって初めてです。
大体三十㎝位降り積って、零下十度位迄降下した様に考えている。
ちょうど○○が終って帰還途中であったが、
自動車がスリップして動かぬのには閉口しました。
何回か転覆し引きずり出して、
それでも大した事故なく帰って来ている。
物凄い吹雪で風に向っては呼吸が出来ない程。
中支にしては珍らしい猛雪だった。

====
文中の ○○ は伏せ字

当時はどこにいるとか、作戦に関してなどは軍事機密で、
場所等が特定できないように伏せ字になっている。

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戦地の状況





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プロフィール
HN:
大場書簡を読み解く会
性別:
非公開
自己紹介:
2011年2月に出版。
引用文の無断コピーはご遠慮下さい。

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